笑いを擁護する

以下は、2011年1月9日に奈良女子大でおこなわれたシンポジウム「社会運動で語ること/伝わること/繋がること」で私が話した内容をもとに書いて、シンポの報告書に掲載してもらった文章です。一部細かい間違いは直しましたが、だいたいそのままです。

このシンポジウムは、奈良女子大の鶴田幸恵さん、名古屋大学の渡辺克典さんたちが中心になって企画されたもので、それぞれ関西の有名な運動家(という言い方が正しいのかどうかいまだにわからないけど)の、土肥いつきさんと上野久美さんのお話を中心にして、それになにかコメントしてくださいということだったので、だいたい以下のようなお話を……するつもりが、土肥さんのトークに引きずられて結局あっちゃこっちゃ脱線し、自分自身のカミングアウトもおりまぜながら、何かようわからん話になっちゃったので、以下に文章をあげときます。

テーマは「関西らしい社会運動について語る」ということだったんですが、やっぱり大阪とか関西のひとは、深刻な問題に取り組む運動家でもトークに笑いを取り入れないと気がすまないひとばっかりなので、私の報告もこういうテーマになりました。

まあ、社会運動そのものを真面目に研究してるわけでもないんですが、毎日こういう業界でいろんなひとに接していくなかで、普段から漠然といろいろ思っていたんですが、そういうことを言葉に出してまとめる、よい機会をいただきました。鶴田幸恵さんには本当に感謝いたします。ありがとうございました。

会場に来ていただいた金明秀たん @han_org 、Bonくん @Bong_Lee にもお礼を申し上げます。飲まずに帰って悪かった。

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シンポジウム「社会運動で語ること/伝わること/繋がること」
2011.1.9 奈良女子大学
報告原稿

「笑いを擁護する」

0. はじめに

 このシンポジウムでの私の役割は、土肥いつきさんと上野久美さんの語りを、社会運動という視点からとらえなおすことだった。もとより私は社会運動について専門的に研究してきたわけではないが、私なりに沖縄や部落でのささやかな「かかわり」を、調査や教育を通じてつくってきた。こうした「かかわり」のなかで、社会運動の歴史や現在について、私なりにいろいろ目にしてきたことがある。本稿では、土肥さんや上野さんの語りに耳を傾けながら、同時に私なりに「語り」と「かかわり」について述べてみたい。ここでは、さまざまなタイプの語りのなかでも、特に「笑い」について考える。

1. 語りと社会運動

 日本で社会運動を研究することは困難である、といわれることがある。それも、専門的に調査研究しているひとたちからである。たしかに、ときおりロンドンやパリから、あるいは2011年2月現在でいえば中東から聞こえてくる、街角での大規模なデモのニュースと比べると、この国にはいわゆる「社会運動」にかかわる一般市民が、あまりにも少ないように思える。
 この傾向は特に若者で顕著で、たとえば昨年、ロンドンとパリにおいて教育予算削減に反対する大規模なデモがおこなわれたが、ふりかえって日本の若者たちは、ネットやケータイの世界にひきこもって、なかなか路上に出てこない。いまや日本の学生たちの最大の関心事は、国の政策や社会問題ではなく、「シューカツ」と呼ばれる独特の通過儀礼である。
 しかし、こうも考えられる。この国の30代から下の世代における恋愛や結婚が激減し、それにともなって子どもの数も急速に減っている。もしかしたらあと数十年とたたないうちに、私たちが知っているかたちでの「家族」はこの国からなくなって、単身世帯ばかりになってしまうかもしれない。この国をおおう閉塞感はあまりに重苦しいので、市民は路上に出るかわりに自分たちのワンルームマンションにとじこもり、じっと静かに、何かに耐えているようにみえる。外に出るかわりに内にこもる、ひきこもり社会、あるいは「リストカット社会」になっているのだろうか。
 しかし、こうした状況においても、私はこれまで、各地にたくさんのネットワークや自助グループがあって、決して多くはないけれども、それでもいく人もの人びとが支え合っているのを見た。そこでは静かだが確かな交流が維持され、そこかしこで状況や自己が再定義され、知識が交換され、つながる喜びが再確認されている。たとえば、短期間ではあるが摂食障害の自助グループをお手伝いしたことがあるが、そこでは自らの「病い」についての観念が語られ、定義され、疑われ、揺さぶられ、そして再定義されていた。もし、「エタであることを誇りに思うときがきた」「Black is beautiful」といった、「自己の再定義」というものが社会運動のもっとも本質的な要素であるならば、これらの場は、確かにこの国の姿をうつしだす「静かな社会運動」であるといってよいだろう。
 私はいちど、摂食障害の自助グループのスタッフに、これは社会運動ですね、と言ったことがある。そのときは私が言っていることはすぐには理解されなかったが(当たり前だが)、私との対話を重ねるなかで、やがて理解してもらえた、ということがあった。そのうち、そのグループの中では、摂食障害の当事者たちは医療や福祉の現場、あるいは家庭などで不愉快な経験をたくさんしていたのだが、そういう経験が「差別」というものだ、と、自らの状況が再定義されていった。

 もちろん、語ることそれを聞くことがすべて社会運動であるとまで言うつもりはないが、それでもこの国にはこの国なりの社会運動があり、それぞれがそれぞれの持ち場で懸命に闘っているところを見てきたのである。
 さて、このシンポジウムの目的のひとつは、「関西の社会運動を考える」ということであった。こうした括りには、どこかしら関西に対するオリエンタリズム的まなざしを感じないでもないが、たしかに土肥さんの「語り」には、独特の戦略がある。それはいうまでもなく「笑い」である。

2. 真面目と不真面目

 この静かで陰鬱な国において、関西という地域は例外的なほどの社会運動の蓄積があるところである。部落解放運動、在日コリアンの民族運動、釜ヶ崎を中心とする労働運動など、これまで全国の運動をリードしてきた歴史がある。こうした蓄積はいまでも、たとえば大阪では、同和推進校だった高校が外国人の子どもを受け入れたり、部落のなかの識字学級がニューカマーの外国人労働者にとっての日本語教室になっていたりと、新しい問題に対処するための資源として機能している。あるいは、同和教育を中心的におこなってきた高校が、現在では「反貧困教育」を掲げて、この時代において要請される教育のあり方のひとつのモデルケースを提供してもいる。
 これらの運動が強力に展開されるなかで、関西らしい「運動の語り」が醸成されてきた。
 社会運動は個人の経験や定義を変更することなしにはありえない。むしろ、個人の経験や定義を変えることが社会運動である、ともいえる。したがって社会運動は個人的な感情、情動といったものに訴えかけるものでなければならない。少人数の自助グループから戦後の部落解放運動にいたるまで、すべてに共通していえることである。
 ところで、個人的な情動に訴えるには、「涙」か「笑い」が手っ取り早く効果的である。したがって、関西の社会運動家は、そろってみな語りが、あるいは関西風にいえば「しゃべりが」得意である。このあたりの「動員のためのテクノロジー」の発達が、「関西っぽい」と言われる側面かもしれない。
 さらに、ひとつの運動のなかで人びとをつなげる、あるいは運動と運動をつなげるためには、目標や「理論」を抽象化する必要がある。そうするともともとの当事者性と矛盾したり離れてしまうことになる。様々な問題領域で活動する人びとを幅広く結集するためには、「当事者性にある程度の制限を加えたうえで」集まる必要がある。つまり、「当事者性だけ」で集まることはもうできない。ここでますます、「ひとを集めるための技術」のようなものが問われることになる。たとえば、「人権」という概念がどのように使われてきたか。それは異なる世界のひとをつなげるために問題を抽象化する装置だった。アジェンダを抽象化する一方で、もっとも感情的で直接的なテクニックが問われるということが同時に起こる。抽象化と具体化が同時に進行するのである。そのときにはおそらく、笑いというものが重要な武器になるにちがいない。
 ただ、こうした「技術」は、どこかで運動の当事者性や「しんどさ」や運動のそもそもの目標と矛盾することがある。たとえば、私は70年代の大阪の沖縄人運動や、現在の摂食障害の自助グループや大阪の被差別部落を調査してきたのだが、どんなかたちでもほとんどすべての社会運動で、「なにか楽しいイベント」や「楽しいトークができるひと」のところにひとが集まり、「真面目」なことをしようとするとひとが来ない、ということがあった。べつにこれらは矛盾ではないとするひともいたが、運動体内部では矛盾だと捉えられることが多い。少なくともバランスをコントロールする必要があることは何度も言及されている。その意味で、運動の方法論において、こうした「楽しさ」「不真面目さ」あるいは「笑い」というものは、矛盾をはらんだ存在である。

 戦後の関西のほとんどあらゆる社会運動において、こうした「ひとを集めるための面白さ」と、「出発点としての原理的なしんどさ」とは、対立してきたとまでは言わないにしても、つねに緊張関係にあった。これを「政治」と「当事者性」との緊張関係と置き換えてもよいだろう。

3. 当事者性としての笑い

 たしかに、土肥さんや上野さんを始めとして、関西の運動家にはトークの上手なひとが多い(他にもコリアNGOセンター事務局長の金光敏氏の語りはぜひ聞いてほしい)。だが、そうした方々とお付き合いしてみると、演説や講演だけではなく、日常会話でもつねにボケたりつっこんだりしているひとが多い。私は、そうしたひとたちに、部落や在日や沖縄や障害や女性など、さまざまな問題と闘う場面で、数多く出会ってきた。それどころか、これは個人的な経験だが、「信頼できる」と思わせるような方(不遜な言い方かもしれないが)にかぎって、そうした方が多かった。みんな、プロの芸人でもないのに、鉄板でウケるネタを持ってるとか、今日は笑い取れたから勝ちやとか(こうした場合の「勝ち負け」とは一体ぜんたい何だろうか?)、トークの序盤で笑いを入れて全体の構成を見事に計算していたり、まるで自らのセクシュアリティや民族性、差別や排除の問題よりも、今日その講演会でどれだけ笑いが取れたかどうかの方が大事にしているように見えることもあった。
 社会運動も人間関係である。ふつう、ひとというものは、楽しい話をするところに集まるものだ。したがって、社会運動、あるいはもっといえば、ひとを動員するということにおいて、楽しく笑いを取ることができるひとは重宝される。しかしまた他方で同時に、運動の現場では、笑いを取るのが上手なひと、ひとを集めることができるひとは、商業主義、上手、器用、政治家、便利……そして不誠実とも、言われることがある。あるいは、そうした笑いというものによってなにかを排除してしまうのではないか、とも。
 たしかに笑いというものは、まずは政治的なものであり、ある種の器用さや臨機応変さという才能が必要なものである。さらに、場を「身内(ミウチ)化」することで、「空気の読めないひと」を排除してしまうかもしれない。
 しかし、土肥さんや上野さんの語りを聞くときに思ったのは、あるいは関西で頑張っている多くの若手の活動家に接したときにいつもいつも思うのは、あれは動員のために「わざと計算して」やっているのではないのではないか、そういう部分もあるだろうけども、むしろ笑いで自分の「バランスを取っている」のではないか、ということだ(土肥さんには「いや計算してやってます」と言われるだろうが……)。
 例えば、日常的につきあっている、一部の仲のよい「当事者」や社会運動家たちで、ことのほか不謹慎な笑いが好きな友人がいる。ときにほんとうに笑えないぐらいの自虐的な冗談を飛ばす。こうした、非常に内密の、個人的な場における不謹慎な笑いについて、私たちはどう考えたらいいのだろうか。
 こうした私的な場における笑いは、ひとを動員するためでも、政治的にうまく立ちふるまうためでもない、どうしてもその場でしか出せないような、ひじょうに密やかな笑いである。たしかにそれは一面では、その場の連帯感を高めて統合するよな、なにか「罪悪感を共有する」ような、同時にその笑いを共有できないものをはじき出すような、広い意味で政治的なはたらきを持っているものなのかもしれない。しかし、ともすれば酒の席でのトラブルを招きよせるようなそうした危険な笑いは、私は思うのだが、身をひきはがして逃れることができない、客観化も対象化もできないような何らかの状況に埋め込まれているいわゆる「当事者たち」にとって(あるいは少なくともその一部のひとたちにとって)、それなしにはやっていけないようなものなのではないだろうか。
 人びとを動員するための政治的な技術としての笑いでもなく、あるいはまた、被抑圧者や被差別者たちが権威や権力をからかって一瞬のうちにそれを無効化するような「抵抗としての笑い」でもない、一見すると無目的で衝動的で、ときには自己破壊的ですらある笑い。例えば被差別部落の若者たちが自分たちの出身家庭の貧しさを笑う笑い、在日コリアンの運動家が自分たちのしたたかさを笑う笑い、沖縄出身の社会学者が自分たちの「肌の色の黒さ」を笑う笑いというものに、私はこれまで触れてきた。ときには場が凍りつくようなそうした笑いによって、私たちはなんとか現実と折り合いをつけ、バランスを保っているのではないだろうか。

 「当事者」という言葉は、あまり良い言葉ではないが、それでもなにかの状況に埋め込まれ、他人事ではなくなり、切実なコミットメントが発生し、「にっちもさっちもいかなくなっている」ひとのことをよくいいあらわしている。こうした状況への埋め込みから逃れ、離れ、客観視し、「解離する」ために、こうした笑いという装置が必要なのかもしれない、と思うのである。
 このようにかんがえると、社会運動やマイノリティのアイデンティティにおける笑いというものは、単に動員のために手段的に使われるものではなくなってくる。笑いというものそのものが、ある種の「当事者性」ともいえるのである。もちろんこのことは、当事者であればそういう笑いを生み出すはずだとか、すべての当事者がこのようなことをする、という意味ではない。ここで私は、それはたくさんある「当事者性」のひとつなのかもしれないという、控えめな提案をしているにすぎない。
 社会運動における笑いを、動員のための政治戦略にも、「弱者のたくましさの武器」みたいなものにも、単純に転換してしまってはならない。それは何かもっと複雑で深刻で、実は「あまり笑えないもの」でもある。だから、笑いというものを、単に動員や組織化のために必要だから肯定する、ということではなく、それ自体が当事者性の現れであるという理由で、もっと根底から肯定したい。私は土肥さんや上野さんのような、「人びとに語る言葉を持っているひとたち」に接するたびに、そう思うのである。笑いを、その機能や役割からでなく、それ自体として考えていきたいと思う。

ベントナイトは地球の贈り物

うわーめっちゃほったらかしにしてた。まあすでにたぶんここ誰も見てないだろうからこっそり何か書いていく。うみのちかさんの話もそのうちまた気が向いたら書く。いまは気が向かん。

もう16年も前の話になるのか。実は関西では「阪神大震災復興景気」というものが一瞬だけあって、釜ヶ崎や大阪中の飯場のおっさんたちに仕事がたくさん回ってきてた時期があって、俺もちょうどそのころ修士の指導教官が亡くなって居場所を失ってしまい、何度目かの日雇い建築現場に戻ってきていたのだった。

いまでは当時にくらべて建設業界の市場が半分に減ってしまったそうで、雇用者も2/3だそうだ。市場が半分で雇用者が2/3ということは、ひとりあたりの賃金も下がっているはずで、たしかに俺がドカタをやっていたときは記憶では一日働いて1万円が相場だった。「ケタオチ飯場」という言葉がまだ生きていた時代で、日給が万の桁から千の桁に落ちると「ケタオチ」と呼ばれ、それは条件の悪いピンハネされる飯場という意味だった。いまでは一日中重い鉄筋を運んで5000円、という話も聞く。

ひさしぶりに飯場に入って(といっても学生時代からの下宿からの通いだったが)最初に通った現場は尼崎の超巨大鉄工所で、広大な敷地内を自家用電車が行き交い、工場のそこらじゅうから摂氏1000度(そんな話だったと記憶している)の蒸気が出ていますから気をつけてくださいとか言われるようなところだった。ほんとうに広い敷地のなかをちっぽけなマイクロバスでゆらゆらと連れられていった先は、まさにラスボスの悪魔が棲んでいるかのような天空にそびえたつ赤黒い魔城で、ああいう大工場っていうのはほんとうに建物みてるだけでドラマチックで物語的だよな。

あの現場には2週間ぐらい通ったかな。しょせん日雇いの雑役夫のおれたちがその悪魔城でやった仕事は、ひとつ40キロのベントナイトの袋を一日で200個とか300個とかを運ぶ仕事で、地面につんである袋をもちあげて肩にかつぎ(膝をうまく使うのがコツ)、100mほど歩いて運んで待機しているトレーラーに積み込む、という作業を、朝8時半から夕方6時までやった。

そういえばそのときにベントナイトという言葉を覚え、それから大阪市大の博士課程に入って結婚しておはぎときなこという可愛い猫を拾って飼いだしたときに、猫砂の原材料にベントナイトと書いてあって、なぜか笑いがこみあげてきた。

そのベントナイトは同じ敷地の別の建物の主柱が震災で傾いたので、その根元を固めるために使うということだったが、とにかく支給される弁当に箸がつかないほど毎日疲れ切って仕事をしていた。

ベントナイトについてはここを参照してほしい。

クニミネ工業株式会社 / ベントナイト
地球からの贈り物、と書いてある。

まあ特にオチとかも考えずに書いてますけども、そういえばいま思い出したけど、おなじ飯場のチームにすごいおっさんがおったわ。すごいおっさんっていっても、当時20代の終わりでもうすぐ30手前というところだった俺からしたらすごいおっさんだったんだけども、たぶんいまの俺と同じぐらいの歳なのかな。

身長がマジで2mぐらいあって、もう毛むくじゃらのゴリラみたいなおっさんだった。ムキムキのでかい体で、あとなんかちょっと言葉がうまく伝わらないというか、まあそういうおっさんだった。とにかくやたらと体がでかくて力が強くて、飯場の誰からも恐れられていた。

あるときその鉄工所の帰りに(そういえばこのおっさん、ベントナイトの袋をふたつずつかついでいたな)、そのおっさんの「何かのスイッチ」が入ったみたいで、マイクロバスのなかで大声でわめいて騒ぎ出して、えらいことになった。何かわからんけど大声で何かを叫びながらゲラゲラ笑ってる。他のみんなはもう、とにかく一緒になって笑ったりして、なだめようなだめようとしていた。運転手のじじいは黙り込んでいた。

いまから考えても不思議でならないんだけど、たまに俺はそういうことをするんだけど、なんか疲れてたしうるさいし、とっさに「うるさい!」と叫んだ。

マイクロバスのなかがシーンと。

そこから飯場までの帰り道、ひとりも、ひとこともしゃべらなかった。

完全にシーンとしたまま、車は飯場へ帰ってきた。

車をおりると、そのおっさんが近寄ってきて、おだやかな声で

「明日も来てね」

チームの全員が、顔から顎が外れるほど驚愕した表情をしていた。

そのときに俺がどう思っていたかというと、なんかどっかぶっ壊れてるんじゃないか俺、と思うけど、べつに怖くもなんともなく、ただうるさかったので、一言注意したら静かになったからよかったなと、きわめて穏やかな気持ちでいたので、

「はい! 明日もよろしくお願いします」

と答えて、さっそうと自転車で下宿に帰ったのであった(もちろん日給をちゃんともらってから)。しかしアレだな、いまから考えると、たぶんチームの全員が「あの若いやつ殺される」と思っていたことだろう。

まあ、だからどうということもない、オチも何もない話だけど、震災復興で建設業というと、悪魔城とベントナイト、ゴリラのおっさんを思い出す。

しかしあのゴリラのおっさん、なんで俺をしばかへんかったんやろか。そのときはほんまに俺は何とも思ってなくて、これぜんぶ後から「こうだったのではないか」と推測した話なんだけど、ひょっとして俺、気に入られてたのかなあ。

おっさん元気かな。

ベントナイトは地球の贈り物だそうだ。

あとアレだ。この話、まえにも書いたな。

謎のおっさんのフーガ

俺の友人の父親だが、許可を得ないまま勝手に書きますが、ときどき失踪するおっさんがいて、半年ぶりに帰ってきたときには奥歯がぜんぶなくなってて、魚のさばき方が異常に上手くなっていたらしい。

この話をきいて爆笑してしまったのだが、いったい何をしていたのだろうか。マグロ漁船かな……あと、このおっさん時々失踪するんだが、大阪の中央卸売り市場で働いているらしいとか、犬を飼ってるらしいとか、断片的に伝わってくる情報が面白すぎて、いつもわくわくしながら聞いている。もちろんご家族のみなさんはご苦労されていることだろうが、幸いいまのところ経済的にしんどいということはなく、父親なしでもちゃんと家計が成り立っているということなので、改めてそういう立場におかれた母親のたくましさと、「謎のおっさん」というものの存在のおかしさについてしみじみしている。

新婚時代は住吉区という、大阪の南の外れの住宅地に住んでいた。ここに小さな小さな居酒屋があって、一階は5人もすわればいっぱいのカウンターだけだったんだけど、しょっちゅう通って、二階の6畳2間ぐらいのスペースでよくみんなで宴会していた。3000円でフルコース飲み放題、酒とビールは二階の冷蔵庫から勝手に出して飲んでもよくて、飯は安くて量がいっぱいで旨いという、この上なく素晴らしい居酒屋だったのだが、後からよく聞いたらそのスペースは普通にその店のおっさんとおばちゃんが寝るスペースだったらしい。12時を過ぎてもわいわい飲んでるとたまに「そろそろ眠いから帰れ!」と言われることがあったが、そうだったのか……。

店を切り盛りしてたのは60歳ぐらいの夫婦だったが、料理を作ったり仕入れをしたり帳簿を付けたりするのは全部おばちゃんの方がやってて、おっさんは何もせず、ただ料理を二階に運んだり、客と一緒に飲んだくれたりしていた。そしてあるとき突然、このおっさんがいなくなったのである。

俺の記憶だとまず最初にいなくなったのはおばちゃんの方で、おばちゃんがいないときに飲み会をしたときの、おっさんが用意した料理がひどすぎて、でもいつも良心的な経営をしていることは常連の俺たちはよく知ってたから、爆笑しながら「炒めただけのウィンナー」とか「ぐちゃぐちゃの卵焼き」とかを楽しんでいた。そして後日、そのうちおばちゃんが復活したと思ったらこんどはおっさんがいなくなった。

おっさんがいなくなった店はいつもの安くて旨い店に戻って、二階で飲んでるときに料理を下まで取りにいかなきゃいけなくなった以外に以前と変わりはなく、いかにあのおっさんがこの店の経営に貢献していなかったかを改めて思い知ったわけだが、驚いたのはこの夫婦、実は夫婦でも何でもなく、あのおっさんも夫でも何でもなく、数年前にふらりとどこかから現れてあの店の二階に住みつき、おばちゃんの仕事を手伝って養ってもらいながら暮らしていた、という事実だった。後から聞いたんだけど、ほんとにびっくりした。

おっさんは、数年前に自転車でどこからともなく現れて、店に居着き、そして数年後、また自転車にのってどこへともなく消えてしまったのであった。

その店はこないだきれいに改装して、今もまだ営業してるけど、まだ同じおばちゃんがやってるかどうか知らない。もうあの店に行くこと自体なくなってしまった。

その他、おさいの友人の父親も失踪癖があったりとか、あと西原理恵子の亡くなった元旦那も子どものころからどこかへ行っちゃう癖があったりとか、まあいろんなところでこういう「謎のおっさん」の同じ話をよく聞く。

沖縄でもよく聞くわ……だいたい女がそのあと居酒屋とかスナックとか開いて、女手一つで子どもを育てて、いつか男が帰ってくるのを待ってるとか、そういう話はほんとうによく聞く。

精神医学の領域で「解離性遁走」という症状があるらしいのだが、これだと精神的外傷からのがれるために記憶ごとなくしてどっかへ行っちゃうというもので、たぶんこういう「謎のおっさん」たちとは違うと思うね! 謎のおっさんがどうしてどっかへ行っちゃうかっていうと、それはたぶん「飽きたから」だと思うよ!

あと、数年前に卒業した学生が書いた卒論で、ホームレスを経験した生活保護の中高年男性に聞き取りをしたものがあって、それはとてもとても面白い優秀な卒論だったんだけど、個人的にものすごい面白かったのは、そのなかのひとりのおっさんで、プライバシーのこともあるからディテールを書くわけにはいかんが、名古屋かどっかで真面目に働いて結婚もして、アパートも借りて真面目に所帯を持っていたのに、ある日とつぜん全てを捨てて大阪に出てきて釜ヶ崎にまで流れ着いたひとの生活史があって、これは面白かった。釜ヶ崎で本格的に調査をしたことはないけど、たぶんあそこにはそういうおっさんが山のように海のようにたくさんいることと思う。

なんていうか、ちょっと憧れることはある。会議だ書類だ内規だ決まりだと、組織の中の糞面倒なことがらにうんざりしているということももちろんあるけども、それよりもっと純粋に、いまの全てを捨ててふらりと知らない街にいって知らない人に囲まれて違う人生を送りたい、という欲望は強烈にある。家も家族もカネもなんにも要らんから、ただカップ酒でも飲んでスナックのおばちゃんからかって、あとは狭いアパートで古本読んだり近所の川の土手をのんびり散歩したり野良猫に餌をあげたり、飽きたらまた自転車に乗ってふらりと消えてしまう。老後はまあ、そのへんで野たれ死にだ。

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追記です。いちばん最初に書いたおっさんの件ですが、最新情報が届きました(笑)。こないだまた失踪してたんだけど、「喧嘩で人殴ってその示談金を稼ぐためにフラフラしてた」んだそうです。「ために」の前後の文章がまったくつながってないような気がします……。

村人たちの国

書斎の椅子をバランスチェアにかえてから腰の調子がかなりよかったのだが、ついこないだ2年ぶりぐらいに腰をいわしてしまい、休みに入って寝たきりになっている。いぜんは毎年恒例だったのだが……久しぶりに強制スリープ状態である。ここぞとばかり家事も仕事もサボりまくってベッドの中で好きなことをしている。そんな近況であるがほんまに今年はついったーのせいでブログの更新が減ってしまった。ついったーも、まあいろんな人と知り合いになれたのでよかったことはよかったのだが、同時にネトウヨとか軍オタとか女嫌いとかペドみたいな連中が湧いてくることも多くて、徐々にネットに希望を持てなくなっている。まあただ単に俺が歳とっただけだが。とげったの問題でもそうだが、だいたいネットというのは悪意があって粘着質で陰険な奴が目立つようなアーキテクチャになってるな。

というわけで寝たきりだったのだが上半身を起こせるようになったので、ベッドのなかで特に何を書くか決めずになんとなく雑文を書こうと思う。

先日、学生の卒論の資料用に外国人労働者問題の一般向け書物を大量に買ったのだが、そのなかの一冊が面白かった。

Amazon.co.jp: ルポ 差別と貧困の外国人労働者 (光文社新書): 安田 浩一  (光文社新書)

90年代初頭にまず「定住」という在留資格が追加され、これによって日系南米人、特にブラジル人が大量に入国することになった。表向きは「里帰り」である。同じころ、実は戦後のはやい時期から行われていた「外国人研修生」という制度が整えられ、1年間の研修に引き続いて2年間の「技能実習生」が認められるようになった。表向きは「国際交流」である。バブル末期の人手不足の時期に、ブラジル人と中国人(研修生の多くは中国人だ)が単純労働者として国内に流入するようになったのだが、「定住者」にも「研修生」にも共通していえるのは、それが単純労働者であることを表向き否定された単純労働者であるということだ。かれらが労働者であることは公的に否定されているので、国としてかれらを守るような特別な施策はいっさい無い。例えば、失業したらどうするか、病気になったらどうするか、日本語教育をどうするか、生活保護等の行政サービスの告知や利用をどうするか、子どもの保育や教育をどうするか……

ブラジル人学校についてはまた改めて書こう。

よく言われることだが、この国には外国人の出入国を管理する政策はあっても、定住する外国人を包摂し市民権を保障するような「共生」のための政策はほとんど存在しない。政治レベルの話だけではなく、さいきんの中国や北朝鮮に対する、あるいは朝鮮学校無償化問題(いや、より正確にいえば、朝鮮学校無償化「除外」問題)に対する一般市民の感情的反応をみていても、そうした政策の実現が夢のまた夢であることを実感するばかりだ。

200万人を超える外国人が暮らすこの国において、表向き外国人労働者の法的存在すら否定されているということ自体、おそらく知らない人のほうが多いだろう。郊外の大工場ではブラジル人が働き、都心の居酒屋では中国人が生ビールを運んでいる。それでもこの国には「外国人労働者」は法的には存在しないのである。

……などなど、この国におけるブラジル人と中国人のあり方については、分けて議論するのではなく、一緒に考えた方が日本の外国人政策の場当たり的ないいかげんさと無為無策が明らかになって面白いのだが、まあそれはそれとして、この本のなかでも指摘されている「中国人研修生にたいするセクハラ」という問題について、いろいろ考えこんでしまった。

さまざまなセクハラ事件の詳しい部分に関しては本書をお読みいただくとして、日本人の側として思うのは、こういうことをするのが地元や家庭では真面目で信頼されている「普通のお父さん」なんだろうな、ということだ。

非常勤時代も入れるともう十年以上大学で学生たちと付き合っているが、たまに卒業した連中と飲むと、日本のサラリーマン社会における性の問題が浮き彫りになって面白い。

こないだも卒業してかなり立派な銀行に就職した奴が「なんで職場の先輩って後輩をすぐ風俗に連れていきたがるんやろうなあ」と笑っていた。

俺がこういう考え方なのはみんな知ってるので、「職場の風俗」の話をするときはみんなどこか申し訳なさそうにしているところが可愛い。でも俺は職場には職場の掟があることはわかっているので、別に教え子たちを責めることはしない。でも元ゼミ生のなかには職場のそういう誘いをぜんぶ断ってる奴もいて、逆に孤立しないか心配だ……でも「会社ってそういうとこだから仕方ないよ!どんどん行けよ!」とも言えないので、辛いところではある。「でも、でも、でも」だな、この問題は。

もちろん会社や職場にもよるのだが、「地元社会に根ざして何十年も地道にやってきた会社」ほどこういう「昭和な性規範」(と言っていいかどうかもわからんが)が残っているような気がする。関西であれば誰でもその名前を知っているような地元の超優良企業でも、毎月のように職場のメンバーで連れ立って京都や大阪の風俗街に繰り出すのだそうだ。

みんな普通の元気な若いサラリーマンや立派な部長さんだそうだ。

上記のルポのなかの、中国人研修生に対するひどいセクハラの事例を読みながら、ふと思ったのだが、こういうのがたぶん、普通の日本人の真面目な良いお父さんの、普通の感覚なのかもしれんな……。もちろん大多数の雇用主は真面目にやってるんだろうけど、その真面目さの影にこうした欲望がないとはいえないだろう。

たびたび同じ話を聞きすぎて感覚が麻痺していたのだが、ふとシラフで考えると、海外の事情についてまるで知識のない俺だが、教えてほしいのだが、他の先進国でもあるんだろうか、企業というフォーマルな場でいっしょに働く同僚たちが、仕事が終わってから連れ立って女を買いにいく、ということが。

仕事が終わってからスナックやキャバクラ、はては風俗やソープにみんなで一緒に行く、という習慣と、相手が中国人の若い女性なら何をしてもよい、という感覚は、どこか目に見えないところで強くつながっていて、確かに「この国のある一部分」を構成しているようにみえる。けっして語られないけど、どこにでも転がっていて、「見られてるけど気付かれてない」この国のマジョリティの姿だ。

簡単にいうとまあ、これもよくいわれることですが、公の場での性的表現や性的言動に対して異常なほど寛容だ、ということもあるけども、それよりもっと興味深いのは、これだけ風俗やセクハラが横行していながら、実際のセックスに関しては実に貧弱である、ということだ。

図録▽世界各国のセックス頻度と性生活満足度

ダントツで頻度も満足度も低いわ(笑)。

なんかこう、性的なことがらに関して、まだ名前がついてないような、非常に歪んだ抑圧が働いているような気がする(ここで「お前らもっと気軽にヤれよ」というと肉食系気取りのただの気持ち悪いおっさんになってしまうので言わない)。

あえて乱暴にまとめっぽいことを言えば、外国人労働者問題にせよ、公共空間での性的なことがらの問題にせよ、セックスの頻度と満足度の低さにせよ、なんかこう、「他者とコミュニケーションする」ということが徹底的に出来ないんだな俺たちは、と思う。俺たちはみんなムラビトなんだよ、いつまでたっても。

布施から玉造まで(3)

というわけでやっとこれで最後。けっこうアップロードするのも手間じゃわい。3〜4年前のルミックスでも十分きれいに撮れる。

大阪市東部の昭和の街並みをどうぞ。

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布施から玉造まで(2)

散歩写真の続きです。まあなんということもない大阪の路地裏ですが、だんだんこういう街並みも貴重なものになりつつある。よく思うんだけど、駅前の再開発ってだいたい失敗してるよね。イオンとかそんなんばっかりで、何にもないとこえんえん歩かされるだけになっている。

どうしてこういう路地って、人口的に作れないんだろうか。こういう路地って、いちどなくなったらもう二度と手に入らないんだろうか。

古い和洋菓子屋さん

古い和洋菓子屋さん

えんえん続く商店街

えんえん続く商店街

一本入るとさびれてる

一本入るとさびれてる

街のおもちゃ屋さんも健在。トイザラスなんかに負けるな!

街のおもちゃ屋さんも健在。トイザラスなんかに負けるな!

こういうのあるよな

こういうのあるよな

布施駅の裏手、謎の空間

布施駅の裏手、謎の空間

こういう路地がいつまでも存在してほしい

こういう路地がいつまでも存在してほしい

風雪に耐えて

風雪に耐えて

美しい路地

美しい路地

どうしてほしんだ。

どうしてほしいんだ。

ひとが暮らしている

ひとが暮らしている

人生のように

人生のように

玄関先の庭園

玄関先の庭園

猫が逃げていった

猫が逃げていった

みごとな連なり

みごとな連なり

幾何学

幾何学

白い

白い

暖かい冬の日

暖かい冬の日

人食い

人食い

布施から玉造まで(1)

実に久しぶりにゆっくり散歩した。東大阪の布施まで電車で行ってから大阪市内環状線の玉造まで戻ってきた。3時間か4時間ぐらい歩いたかな。カネもかからんし楽しいし、最大の娯楽である。

布施駅裏周辺は古くからの繁華街で、かつては東大阪の中心地であった。今ではすっかりさびれてしまったけど、昔はさぞかしにぎやかだっただろう。スナックや韓国パブや風俗や小さなストリップ小屋が、古い商店街のまわりに集まって、ほそぼそと営業している。ところどころ更地になってるけど、なんだか地上げも力入ってないかんじ。

路地裏という路地裏をくまなく歩いた。

昭和な商店街

昭和な商店街

つぶれたゲーセン跡

つぶれたゲーセン跡

レトロな街だが人は多かった

レトロな街だが人は多かった

スナック街が駅裏にひろがっていた

スナック街が駅裏にひろがっていた

こういうところには必ず猫がいる。猫がいる街は良い街である

こういうところには必ず猫がいる。猫がいる街は良い街である

なんとこの路地の奥に店がある

なんとこの路地の奥に店がある

朝9時から元気に営業中

朝9時から元気に営業中

スーパーボディコン

スーパーボディコン

スナックの横が更地に

スナックの横が更地に

なぜだかなつかしい

なぜだかなつかしい

ひきずりこまれて二度と出られない路地

ひきずりこまれて二度と出られない路地

「かおり」の裏の顔

「かおり」の裏の顔

小さなストリップ小屋。昼間から営業中

小さなストリップ小屋。昼間から営業中

なんか妙な名前のスナックが多い

なんか妙な名前のスナックが多い

ベニヤ一枚、裏は事務所

ベニヤ一枚、裏は事務所