数年前、大学んときのジャズ研の後輩のてっちゃん、超大手ゲーム会社でサウンドディレクターやったあといま東京で独立してばりばり仕事してる、ちなみに超イケメン、と一緒にバンドやってたとき、スタジオに向かう車のなかで小曽根真のソロピアノを二人で聴いてて、気持ち悪いぐらい上手いなこいつ。間違えたりせえへんのか?って聞いたら、自身もピアニストであるてっちゃんが「たぶん僕らのわからんレベルでたくさん間違えてると思いますよ」って言って、おおなるほどと思ったことがある。本人的には「あーここ間違えた」「失敗した」とかたくさん思っておられるんだろうけど、俺にそれを聞き取る能力がないっていうことだな。
ジャズっていうのは要するに「特定のコード進行の繰り返し」である。D・サドナウの本でもそんな記述があったと思うが(忘れたが。なかったかも)、よくやる曲のコード進行を何度も何度も練習していると、そのうちそのコード進行を「覚えこんで」しまって、個々のCm7だのE7+だのD∆7/F#だのというコードを意識せずにその音を出すようになる。
そのときに、演奏してる側の意識はどうなってるかというと、個々のコード進行の記号はもう頭に浮かばない。ただその音だけが浮かんでる感じになってる。
つまり、「ああ1小節目がCm7で次がF7、そのあとBbからEbに上がって、あとはGmに ll – V で下りていって」って思ってるうちはまだその曲を覚えてることにはならなくて、いま自分が弾いてる音だけが脳内に鳴ってる感じ。これ、誰が鳴らしてるのかほんとに不思議なんだけど。自分は受け身でそれを聴いてるっぽい。
あー俺はそこまでのレベルにはぜんぜん行ってませんよ、自分の乏しい経験から類推してるだけで。僕は慣れた曲でもよく間違えるし自分がいまどこにいるのか見失います。音楽的方向音痴。
まあでもさすがに「Fのブルース」とか枯れ葉とか、もう何万回もやった曲は、さすがに間違えなくなってます。完全に無意識でもちゃんとコードを追っている。
このへんの「間違えなくなる」っていうのは、もちろん完全にじゃないだろうけど、脳って面白いなあと思います。例えば、人の名前を言い間違ったりはみんなしょっちゅうあると思うけど、自分の名前を「うっかり言い間違える」ってことは極端に少ないと思う。
あるいは、「机」を指差して「アメリカ」って言い間違えたりはしないでしょ。通常の状態で「そこのアメリカの上にある俺のiPhoneとってー」と言い間違えるのはかなり考えにくい。もちろんなんらかの原因があってそうなる場合は別ですよ。
前に、あるプロのジャズミュージシャンの方とお話ししてるときに、プロの定義を聞いたら「間違えないこと」と仰っていた。
たぶん最初に書いたすごいレベルにまでいってる音楽家が、私らが気付くような間違いをほとんどめったにしないのは、要するにこの「わざとでないかぎり間違ったりしないようになっちゃうレベル」がものすごく高いっていうことなんだよな。ちょっと想像もつかんところのレベルで体で覚えこんでる。
「体で覚える」ってのも面白い表現だな。
そういえばこないだジャズ熱再発について書いたあと、どうしてもたまらんくなってYAMAHAのサイレントウッドベース買っちゃったんですが(笑)、もちろん毎日練習してもまだまだぜんぜん弾けませんけども、基本的なフォームやポジションは「体が覚えてる」。これはたぶん、ふだん自転車に乗らないひとでも子どものときに乗れていれば何十年したあとでも乗れちゃうのと同じだと思います。体で覚えている。
それで、ものすごく面白かったのが、数年前に学生つれて沖縄で調査実習をやったときに、沖縄の民謡歌手や舞踊家の方々にお話をお伺いしたんですが、そのなかで非常に有名な女性の琉球舞踊の方が、インタビューのなかで「半分は覚えるために練習し、残りの半分は忘れるために練習しています」と仰っていた。これ聞いて私はとても感動したのだが(学生さんたちはあんまりピンとこなかったみたいだけど(笑))、ジャズでも伝統文化でもみんな同じだな。スポーツや車の運転でも同じなのかな(俺にはまったく想像つかんけど)。
半分は覚えるために練習し、残りの半分は忘れるために練習する。
これがたぶん「体で覚える」っていうことなんだろうな。体で覚えてるっていうことは、頭では忘れてるっていうことだよね。コード進行でも言葉でも舞踊でも何でも、頭で覚えてるうちは間違う可能性があるんだけど、体で覚えてしまうと、もう意識的に間違えないかぎり「うっかり」間違ったりはしない。行為と規則が一体化してるっていうことかな。完全に自由にやっていてもちゃんと規則に従っている。