別に大学教員の本質ってことじゃなくて単に組織の作り方の問題

あいかわらず facebook で遊んでます、別にリアルの知り合いじゃなくても友だち申請受け付けてますよー。本名で検索してください。ところでFBでもちょっとだけ書いたけど大学教員の仕事って三つあって、研究と教育と校務なんだけど、(ウチだけかもしれんが)研究と教育は異常に自由で放し飼いで、クリエイティブな人がたくさんいるのに、校務となるともうむちゃくちゃに無意味なことばっかりやってる。ちなみに俺がそういう役職にあたったときは無意味なことばっかりやるだけでなく、それを間違ったやり方でやってしまう。要するに無能っていうことだな。よう俺なんか雇ったな。うそですありがとうございます。まあそれはさておき、大学ってほんとに不思議なとこやなー。大学の経営なんか事務に任せといたらええんちゃうかとも思うけどそういうわけにはいかんし。けっきょく教員が集まってあらゆることに委員会立ち上げてぜんぶ会議で決めていかないといけない。そしてそのときの会議で何を決めているかというと、「もっとも効率がよい大学経営の方法とは何か」「もっとも学生を集めることができる方法は何か」「もっとも効果的な教育方法とは何か」ということではなくて、「こう言われたらどう言い訳するか」「ここ突っ込まれたらなんて返すか」「この規定とこの規定が矛盾してるけどどっちを変えるか」「この議題はこの会議で決めてよいことかどうか」などなど。民間のように「いかに儲けるか」という明確な目標がないので、目的と手段がすぐにいれかわる。そうこうするうちに18歳人口がどんどん減っていく。でも大学の教員っていわば「全員が交替で社長」だし、みんなで情報や議事を共有するのはものすごく大切だし、他のやり方もまったく思いつかないし。まあたぶん俺がまだ下っ端なので大学の組織についてよくわかってないっていうことなんだろうな。「そういうふうに見えてるだけ」なんだろう。よし納得した。さて今日も会議。昨日なんか5時間以上やってたわ。


科学と政治

先日、扁桃腺がめちゃくちゃ腫れて痛くて眠れなかったのでFBの方に書いたメモ。

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ポストコロニアルの「当事者の証言」の話や、解放社会学系の構築主義のライフストーリー論、それから臨床社会学に導入されたナラティブ論なんかをぱらぱら読んでると、実証主義を批判する議論がけっこう多い。

例えば、沖縄の集団自決の規模や形態、実際のプロセスや指揮系統などについて、事実のレベルで争うことは、証言者の「語る権利」や、もっといえば「思い」みたいなものを裏切ることになる(あるいはそれ自体が「権力=暴力の作用である」)ので、われわれはそうした語りに「共感的態度」で臨むべきだとされる。

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ときおり左翼というか「解放的認識関心w」のもとで研究してる人たちは、実証主義や科学のことを忌み嫌う。まず科学というものは「支配階級のイデオロギー」であるとされる。次に、なにかを科学的研究の対象とすることは、それを切り刻み、脱感情化し、その「価値」を否定し、きれいに脱色消毒消臭してカテゴリーのなかに並べ替えることだとされる。

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科学が政治的である、というのは、それはそうだろうと思う。それはいろんなレベルにおいてそうだろうし、そうでない科学はないだろう。でも「科学は政治である」といえるだろうか。

(1) 科学は政治的イデオロギーに左右される
(2) 科学的研究の対象にすることは、対象に対する暴力である

確かに、どちらも「そうである場合もありうるし、実際に歴史的にそうであったことも少なくない」とは言えるだろう。

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私たちは、「AはBである」ということを日々決定しながら社会を動かしているのだけど、たとえば「ある行為がセクハラである」ということが、どのように決定されるのだろうか。

私は実は、ある大学での人権問題担当(!)の教授がセクハラをおこしてクビになったときに、及ばずながら被害者の側の支援に回ったことがある。そのときわかったのは、セクハラの定義は「被害者がそれをセクハラだと思った行為」というように組み立てるしかないのだが、実際にある行為がセクハラであると「認定」されるまでには、かなり膨大な「社会的な手続きと相互作用」を経てなされるしかない、ということだ。

被害者が勇気を出して申し立て、良心的な弁護士が横につき、周辺に支援の輪が広がって、学内の良心的な教員も見方について、フォーマルな申し立て手続きに入ると、大学側にも調査委員会が立ち上がり、複数回の慎重な調査がなされ、繰り返しおこなわれる会議に何十時間も費やされる。

もちろんやる気のない大学も多いし、実際はもみ消されたりすることの方が多いと思うし、逆に冤罪でハメられた運の悪い教員もいるだろうとは思うけど、それでも「ああこうやって物事は『社会的に決定』されていくんだな」ということがよくわかった。

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このプロセスはまぎれもなく「社会的」で、おそらくはかなり「政治的」でもあったはずだが、それでもとにかく何らかの「結論」に到達していった。繰り返すが、この結論はまるっきり間違っていることもありえただろうし、被害者加害者双方にとって納得のいくものではまったくなかったであろうことも考えられるのだけど、それでも他のやり方によって何らかの結論に至るということは考えられないし、とにかく私たちはこういうやり方によって社会を動かしてきたのである。

そして、これは私個人の無根拠な信念かもしれないが、個々のケースのレベルにおいては、膨大なもみ消しや冤罪その他の「社会的プロセスの挫折」を含みながらも、全体としては少しずつ進歩していて、社会全体としてセクハラというものに敏感にはなってきているのである。

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もしこうした「物事の決め方」が、恣意的で政治的なもの「でしかない」のなら、それは私たちの歴史をすべてひっくるめてその全部を否定することになる。

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デイヴィドソンの「寛容の原則」を、「社会的に決定すること」にまであてはめることはできるだろうか。もちろんそのときは「意味」(あるいは「真理」)という概念の意味をかなり変えないといけないけど。

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私たちは自由に何でもやってるんだけど、でもそれはいつも必ず何かの規範や規則に従っている。熟練した音楽家のように。

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まず、社会的に決定されるということと、恣意的な政治によってどんなふうにでも決定できるということとは別のことである、ということがちゃんと言えるなら、たぶん上記の(1)のような考え方は成り立たなくなるだろう。

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(2)に関して何が言えるかは、今はちょっとまだわからない。

しかし、もし私たちが「解放的認識関心w」を持っていて、たとえば沖縄の集団自決について、それが真実であり、旧日本軍に相当の責任があるということを主張したいのなら、それは「公共の空間」で主張される必要がある。そうするとその「それがそうかどうかについての決定」は、通常の決定と同じ程度には、完全に普通の通常の世俗的な「社会的な手続きと相互作用」のなかにおいてなされなければならない。

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(別に左翼の業界に公共性がないとまで言いたいわけではない。)

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性暴力犯罪の裁判における被害者の扱われ方が参考になるかもしれない。顔をかくす、ついたてを立てる、ビデオで証言する、などなど。これは「当事者の語りをまるごと受け入れて共感する」ということからはほど遠いが、しかし「当事者に直接の傷を負わせないためにできることを何でもする」ということではある。世俗的ではあるが、だからといって効果がないということはないだろう。

そういえば「当事者の語りをどれくらい尊重したか」についての基準を作ろうと言い出したひとをまだ私は知らない。

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「公共の場での議論」にコミットする気なら、「当事者の思いにまるごと共感する」ことよりも、「いかに当事者の気持ちを直接傷つけずに公共の議論の場で勝利するか」を考えたほうがいいんじゃないかと思うけど、これってやっぱり乱暴なんだろうか。冷たい奴だと言われちゃうのかな。

でも、公共の場での議論を歴史修正主義にリードされて定義権を握られてしまったのが、ここ10年ぐらいに起きたことじゃなかっただろうか。特にネットでは。

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まあ(2)についてはちょっとあとで考えるとして、まず(1)について、「科学的に決定される」ことと「社会的に決定される」がそんなに違わないことを両方の意味で述べることが必要なのかな。両方っていうのは、「科学的なことは社会的ですよ」と、「社会的なことも(けっこう)科学的なんですよ」っていうことを両方っていう意味である。

あとはまあ、規範や規則に従った行為の話とか、あと何かな。要するに私は、「ちゃんと事実のレベルで争いましょうよ」ということを言いたいのだが、そのために何が必要なのかは、ちゃんと理論的な勉強をしたことがないのでぜんぜんわかりません! 以上です!