花園町、鶴浜

いつも年末になるとロング散歩をする。若いころは毎週のように長時間、あてもなくただ大阪の街をふたりでうろうろと歩いたのだが、最近はもう、まとまった休みでもないとゆっくり歩けない。

2023年12月30日、土曜日。なんとかこの日はまるまる一日空けて、ひさしぶりにゆっくり歩いた。さいきんはスマホで歩数も自動で計測してくれるね。2万歩だった。四つ橋線の花園町から、ぶらぶらと歩いているうちに港のほうまで来ていて、腹も減ったのでIKEAでなんか食おう、ということになった。ついでに細かい買い物をして、バスに乗って帰った。すっかり夜になっていた。

歩いている途中で不思議な景色に出くわした。大正内港の真ん中に、長い長い、細い通路のようなものが浮いていて、その両脇にずらりと浚渫船や貨物船が係留されている。

こんなところがあるんだね。

水辺を歩き、大阪市名物の渡船にも乗った。

みなさんは、今年はどんな年でしたか。私は、長年一緒に暮らした最愛の家族(猫)が亡くなり、仲が良かった友人が自死し、前の職場の同僚でもある、もっとも尊敬する社会学者も、病気で亡くなった、そんな年でした。

でも、いいこともたくさんあった。職場をかわり、本も4冊刊行した。

鏡を見るたびに最近は、ああ老けたなあと思うばかりだが、2024年も相変わらず大阪の下町の路地裏でひっそりと暮らしていきます。

立岩真也の思い出

以下の文章は『新潮』2023年10月号に掲載されたものです。編集部の許可を得て全文公開します。

—–

「立岩真也の思い出」

2006年から龍谷大学で職を得て働き始めたのだが、たまたま縁があって、2017年の4月から立命館大学大学院の「先端総合学術研究科」というところに移籍することになった。正式に移籍することが決まる前に、京都駅のホテルグランヴィア京都のカフェラウンジで立岩真也と会った。それまでも、先端研にはいろいろとお世話になることがあり、何度か博論の口頭試問などで挨拶はしていたのだが、グランヴィアのラウンジで立岩真也とはじめてサシでゆっくり喋ったのだった。

立岩真也は戦後の日本の社会学が生み出した最大の天才だと思う。テレビに出たりして、一般向けに有名なひと、というのはほかに何人かいるが、立岩は膨大な量の論文と本を書き、おそらく社会学のものとしては世界最大級のアーカイブをネットに築き、立命館の先端研で大量の院生を育て、その博士論文を次々と出版させ、大学のなかに生存学研究所という巨大な研究所を設置し、障害や難病の研究に関する国際的なネットワークを形成した。日本の社会学者で、ほかにこれほどの仕事をした者を、私は知らない。

若いころから憧れの社会学者だった立岩真也と一緒に働ける。私が先端研に移籍した最大の理由がこれだった。グランヴィアのラウンジで私はとにかく、人生で最大の喜びを感じていた。

立岩は教授会でも口頭試問でもゼミでも、それだけでなく時には飲み会ですら、目の前にタブレットとキーボードを置き、常に何かの文章を書いていた。教授会でややこしい案件が審議されているときでも、その目はいつも画面を向いて、キーボードを叩いていた。しかし話が肝心なところに入ると、いつも突然顔をあげて、きわめて的確な意見を独り言のようにつぶやき、また画面のなかへと戻っていく。ああ、ちゃんと話が聞こえてるんだな、と何度も驚いたことがある。

学問というよりあれは、信仰とでも呼べるものだったのではないかと思う。J.コルトレーンは生前、「私には娯楽とよべるものはなかった」と語っているが、立岩の場合も、酒以外に何か趣味があったのだろうかと思う(とにかく立岩は酒が強かった)。なかったのではないか。自宅で小さな畑仕事をしていたらしいが、とにかく、その人生の大半は、「障害学」の立ち上げと発展に捧げられたのではないか。

そしてそのために切り捨て、諦めたものも多かっただろう。立岩が『文學界』2017年7月号に書いた短いエッセーがある。大学院生になる頃には、それまで年間200本ほども観ていた映画も観なくなり、小説を読むこともやめた、と書かれている。

生活のすべてを障害学の研究に捧げた立岩は、孤高の天才であると同時に巨大な組織のワンマンボスでもあった。教授会の最中でもキーボードを叩くその姿自体が、「俺は俺の仕事をやるから、お前らはお前らの仕事をやれ」というメッセージのように見えた。

何度か立岩とは一緒にトークイベントをやったことがある。いちど、ふたりで心斎橋の(いまはなき)スタンダードブックストアでトークをした。たくさんのお客さんが来て(わざわざ沖縄から来たひともいた)、盛り上がった。その打ち上げで串カツに行ったのだが、立岩はまったく素朴に堂々と、いちど齧った串カツをもういちどソースにつけていた。みんなで爆笑して、「ソースの二度づけ」が大阪においていかに大きなタブーなのか知らんのか、とつっこんだら、彼も笑いながら、何がいけないんだよ、と言った。

そのあと、いちどだけ大学の近くの小さな居酒屋でサシ飲みをしたことがある。ああでもないこうでもないとろくでもない世間話や陰口でさんざん酒を飲んだ。私が立岩の、院生の指導の仕方に文句を言うと、彼は怒って、そんなことどうでもいいんだよ、と言った。立岩さんほんまひとの話聞かへんな、と私は笑った。

よい思い出だ。

私が先端研に在籍したのは6年間で、そのうちの1年間はサバティカルをいただいたから、実際に授業を担当したのは5年間だ。その5年間ずっと、立岩真也と一緒に通年のゼミをしていた。5年間一緒に仕事をして、会議も授業も一緒で、私は生存学研究所の仕事にはほとんど関わらなかったけれども、なにか困ったことがおきたときは、いつも助けてくれた。組織を立ち上げ研究全体を引っ張る剛腕がありながら、心根の優しい男だったと思う。

そう、組織のなかで一緒に仕事をすると、自分勝手だし他人の意見は聞かないしワンマンボスだし、ということで、なかなかいろいろ、やりにくい面もあったけど、ほんとうに心根の優しい人間だった。だからこそあれだけの情熱を傾けて、障害や難病の当事者に徹底的に寄り添った研究を長年続けていくことができたのだろう。

私は立岩のあの読みにくい文体を何度もネタにしていて、その文体を真似て書いた「もし立岩真也がカップラーメンを食べたら」という文章をブログに書いたりしている。それを読んだ立岩は「ヒマだな」と言っていた。Twitterでネタにするたびに、無言でRTされた。そういうやりとりがほんとうにうれしかった。

いろいろな事情があり、いろいろな縁もあって、私はふたたび、2023年の4月から京都大学へ移籍することになった。

去年の暮れのことになる。2022年12月13日は、その年の最後の合同ゼミで、立岩真也から、文庫化された『良い死/唯の生』をもらった。その場でサインをねだると、苦笑しながら、あの雑な字で書いてくれた。私は「ちゃんと俺の名前も書け」と言って、書いてもらった。その場で写真を撮り、「推しのサインもろた」とSNSにアップした。12月25日にゼミの忘年会をして、それが最後になった。そして4月に私は京大に移った。もちろん病気のことは聞いていて、それがかなり重い病気で、入院した病室からzoomでゼミに参加している、ということも聞いていた。私はその病名を検索して、けっこう治る率高いんだな、と安心していた。

7月に入って、立岩さん何してるかな、と思って、メールしよかなと思いながら、まあでも忙しいやろし、なんかそれも迷惑かな、と思っていた。7月31日、音楽仲間と酒を飲んでいると、数名の先端研の院生さんと、先端研の同僚だった小川さやかからメッセージが飛んできて、亡くなったということを聞いた。私はそのまま友人には何も言わずに酒を飲み続け、店を出て、連れあいに電話をして、立岩さん亡くなったらしいと言ったら、連れあいのほうが驚いて、ショックを受けていた。家でもしょっちゅう立岩さんの話をしていたから、まるで自分の友人のように感じていたのだ。

イラストは新潮社『にがにが日記』より
https://www.shinchosha.co.jp/book/350724/

「もし立岩真也がカップラーメンを食べたら」
http://sociologbook.net/?p=2003