もし立岩真也がカップラーメンを食べたら

 まず、腹が減ったということと、空腹であるということについて。血糖値が下がっている問題であるというのはその通りだ。まずはそれでよい。腹が減ったという内的な感覚がまずあり、様々な労働や生活の現場で、長時間にわたって飯を食ってないという事実がある。そのように私たちは腹が減ったという感覚を感じる。飯を食ってないという事実が、一方に結びついている場合があることを考えていくことはよいことのように思われるのだが、腹が減っているという感覚に結びついていない場合もあるだろう。それを認めてもよい。私の考えを述べればこうなる。同意する必要はない。

 すると今度は、腹が減っているということを、それは個人的なことでありながら同時にこの社会に普通に存在する価値や現実に関わっているように思われるのだが、どうするかという問題がある。結局、なにごとかをなし、なにものかを摂取するということになる。それほどややこしく、こんがらがってない場合でも、なにかを食べるということと、なにかの食事をするということは、そのありようとして様々であり、食べること、食事をすることの、具体的になされてよい作業について、調べて考えるということが、それはかなりのコストと労力が必要とされることであり、またすべてをひとりで背負わなくてもよいことなのだが、まずはよいこととされる。

 ここでキッチンにカップラーメンがある。前にも述べたように、その種類は何でもよい。しおであったり、みそであったり、カレーであったりするだろう。私たちはそんな区別を、時にはしてしまうこともあるのだが、またそれはそれなりの理由がないこともないことなのだが、それなりの理由があってないこともないことをあえてここで言うことに、それなりの意味があってなくもないことがある。よってここではただ、カップラーメンがあるとすればよいということになる。さしあたっては、そこにカップラーメンがたしかに存在する。

 そうすると次に、その存在するカップラーメンをどうするかという問題になる。腹が減っているときにカップラーメンを食べると腹が膨れるということは言うまでもないことであり、その言うまでもないことをもういちど、あるいは何度でも言っておくということは、何らかの理由でよいこととされることがあり、またそのようによいとされることでも何らかの別の理由においてよくないこととされることもあるのだが、

(ここで力尽きた……)

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