もし立岩真也がカップラーメンを食べたら

 まず、腹が減ったということと、空腹であるということについて。血糖値が下がっている問題であるというのはその通りだ。まずはそれでよい。腹が減ったという内的な感覚がまずあり、様々な労働や生活の現場で、長時間にわたって飯を食ってないという事実がある。そのように私たちは腹が減ったという感覚を感じる。飯を食ってないという事実が、一方に結びついている場合があることを考えていくことはよいことのように思われるのだが、腹が減っているという感覚に結びついていない場合もあるだろう。それを認めてもよい。私の考えを述べればこうなる。同意する必要はない。

 すると今度は、腹が減っているということを、それは個人的なことでありながら同時にこの社会に普通に存在する価値や現実に関わっているように思われるのだが、どうするかという問題がある。結局、なにごとかをなし、なにものかを摂取するということになる。それほどややこしく、こんがらがってない場合でも、なにかを食べるということと、なにかの食事をするということは、そのありようとして様々であり、食べること、食事をすることの、具体的になされてよい作業について、調べて考えるということが、それはかなりのコストと労力が必要とされることであり、またすべてをひとりで背負わなくてもよいことなのだが、まずはよいこととされる。

 ここでキッチンにカップラーメンがある。前にも述べたように、その種類は何でもよい。しおであったり、みそであったり、カレーであったりするだろう。私たちはそんな区別を、時にはしてしまうこともあるのだが、またそれはそれなりの理由がないこともないことなのだが、それなりの理由があってないこともないことをあえてここで言うことに、それなりの意味があってなくもないことがある。よってここではただ、カップラーメンがあるとすればよいということになる。さしあたっては、そこにカップラーメンがたしかに存在する。

 そうすると次に、その存在するカップラーメンをどうするかという問題になる。腹が減っているときにカップラーメンを食べると腹が膨れるということは言うまでもないことであり、その言うまでもないことをもういちど、あるいは何度でも言っておくということは、何らかの理由でよいこととされることがあり、またそのようによいとされることでも何らかの別の理由においてよくないこととされることもあるのだが、

(ここで力尽きた……)

沖縄社会学会 第5回大会

沖縄社会学会 第5回大会のお知らせです。

日時:2022年12月4日(日)
開催方式:対面とzoomオンライン配信のハイブリッド(予定)
※ コロナの感染状況によっては、完全オンラインに切り替える場合があります。
会場:沖縄県立看護大学 教育管理棟4階 大講義室
zoomにてオンライン配信(予約制・申込された方に後日アドレスをお送りします)
参加無料
※会場には駐車場はありませんので、付近の有料駐車場をご利用いただくか(下記資料参照)、公共交通機関にてご来場ください。
※なお学会当日はNAHAマラソンにともなう交通規制が予定されています。コース付近を移動される方はご留意ください。
※会員の方以外でもどなたでも参加可能です。

予約申込はこちらです。
https://forms.gle/VEXvUfF62f9f5f8y8

10:00 第1報告
福村俊治・仲間寛子(設計事務所代表・琉球大学人文社会科学研究科修了)
「32軍壕の建築学的考察」

11:00 第2報告
打越正行(和光大学)
「製造業と談合なき経済成長―建設業からみる「戦後」沖縄」

12:00〜12:30 休憩

12:30 第3報告
里村和歌子(九州大学)
「なぜ右翼女性が沖縄を主題に掲げて国政選挙に出馬したのか―フェミニスト・エスノグラフィーという試み」

13:30 第4報告
伊原亮司(岐阜大学)
「在日米軍基地労働の「職務給」―「働き方改革」を基地労働者の運動から考える」

14:30〜14:45 休憩

14:45 シンポジウム「辺野古で暮らすということ―シュワブと歩んだ歴史と普天間基地移設問題への応答」

概要
 普天間代替施設/辺野古新基地の建設が進む辺野古は、1950年代後半に建設された米海兵隊基地キャンプ・シュワブとともに歩んできた「基地の町」でもある。この辺野古で生活を営んできた二人の住民に、シュワブと歩んできた60余年、そして普天間基地移設問題に向き合ってきた四半世紀をどのように暮らしてきたのか、語ってもらう。

登壇者
 西川征夫(辺野古の住民運動組織「命を守る会」初代代表)
 嘉陽宗司(元・辺野古区民。辺野古社交街にあるラーメン店「アリガートー」オーナー)
司会・進行
 熊本博之(明星大学教授。近著に『交差する辺野古』『辺野古入門』)

16:45 終了

■■
キャンパス周辺の有料駐車場

〇琉球銀行寄宮支店前(寄宮交差点付近)
39台まで駐車可能、土日祝の利用料金は1時間100円、8時から16時の最大料金が300円となっています。

https://goo.gl/maps/sGjRaWfL2nFyBMHV9

〇与儀の赤十字病院の駐車場(与儀十字路付近、病院裏手)
電話確認したところ、一般利用も可能、料金は1時間300円、12時間までは最大料金700円とのことです。

https://goo.gl/maps/SvR3bFGVB6tEjez58

国際学術シンポジウム「歴史・人生・物語──東アジアのオーラルヒストリー研究」開催のお知らせ

このたび、東アジア生活史研究会は、以下の要領で国際シンポジウムを開催します。みなさまぜひふるってご参加ください。(要予約・参加無料)

──シンポジウム概要──

歴史・人生・物語
──東アジアのオーラルヒストリー研究

2022年2月20日(日) 14:00 〜 19:00
オンライン配信のみ/要予約・参加無料

参加申し込みフォームはこちらです。
※定員に達しましたので締め切りました。ありがとうございました
(先着300名)

〈第一部〉
大阪市立大学都市文化研究センター研究員 全ウンフィ
日本大学国際関係学部助教 陳怡禎
大阪国際大学人間科学部講師 上原健太郎

〈第二部〉
国立政治大学台湾史研究所准教授 李衣雲
韓国学中央研究院教授 金元
慶應義塾大学総合政策学部教授 清水唯一朗
立命館大学大学院先端総合学術研究科教授 岸政彦

総合司会:東京大学大学院情報学環教授 北田暁大
主催:東アジア生活史研究会
共催:立命館大学生存学研究所
使用言語:日本語・中国語・韓国語(通訳付き)/参加無料
お問い合わせ:東アジア生活史研究会事務局(yoyaku@sociologbook.net)

──報告詳細──

〈第一部〉
2018年〜2020年までに日本の沖縄、韓国、台湾の戦争経験者に対して実施した、東アジア生活史研究会による生活史聞き取り調査の概要を、研究会の所属メンバーが報告する。

第1報告 日本大学国際関係学部助教 陳怡禎(台湾調査)
第2報告 大阪市立大学都市文化研究センター研究員 全ウンフィ(韓国調査)
第3報告 大阪国際大学人間科学部講師 上原健太郎(沖縄調査)

〈第二部〉
台湾・韓国・日本でオーラルヒストリーを研究する研究者たちが、それぞれの調査研究から、「歴史と人生の語り」について報告する。

第1報告 李衣雲

1971年生まれ。台湾史学者。台湾・国立政治大学准教授。研究テーマは大衆文化・漫画史、消費文化、集合記憶。主な著作に『邊緣的自由人──一個歷史學者的抉擇』『台湾における「日本」イメージの変化、1945-2003: 「哈日(ハーリ)現象」の展開について』『變形、象徵與符號化的系譜:漫畫的文化研究』など。論文に「戦時体制下台湾の『デパート』―全体主義と個人の軋轢」「一九四〇年代~一九六〇年代の台湾漫画──政治、イデオロギー、文化の場の競合」「日本統治期視覚式消費と展示概念の出現」など。

報告内容

本報告は、2019年に刊行された『邊緣的自由人──一個歷史學者的抉擇』の執筆過程に対する振り返りである。報告者は、歴史学者である父親の李永熾氏によるオーラルヒストリーを中心に、多くの第三者視点、新聞記事資料や記録なども取り扱い、李永熾氏の学術思想や生活史を構築するとともに、日本植民地時代から戦後の台湾社会を記録した。ここでは以下の二点について討論する:第一に、オーラルヒストリー研究における一人称的記述や三人称的記述の転換方法、また、当人の記憶が曖昧な語りから庶民の生活史を構築するための、裏付け的な資料収集の困難である。第二に、報告者は父親によるオーラルヒストリーへの記述を通じて、自分自身の故郷に対して見方や感情を再構築した経験がある。このような経験を通じて「空間」は「場所」として意味づけされる。この過程の重要性について議論したい。

第2報告 金元

1970年生まれ。 近現代韓国学研究者。 韓国学中央研究院教授。研究テーマは韓国におけるマイノリティ、サバルタンなどに関する口述資料に基づいた研究。 主な研究は『女工1970—彼女たちの反歴史』、『朴正煕時代の幽霊たち』、『忘れられたものたちへの記憶—1980年代大学の下位文化と大衆政治』、『1987年6月抗争』(以上韓国語)など。2009年以降「現代韓国口述資料館」研究プロジェクト(https://mkoha.aks.ac.kr)で研究責任者を務めている。

報告内容

2010年代初めに調査した1980年5·18民衆抗争の時期に起きた、一家殺人事件に関する口述資料について報告する。 今回の報告では、当時ソウル、光州、莞島で行われた現地調査および口述調査に基づき、表では個人間の恨みのようにみえる殺人事件が、実際は1945年の植民地支配からの解放後の内戦、朝鮮戦争、湖南地方をめぐる地域間経済格差、そして朝鮮戦争の記憶が1980年5月に再び登場する過程を紹介する。

第3報告 清水唯一朗

慶應義塾大学総合政策学部教授。専門は日本政治外交史。博士(法学)。慶應義塾大学法学部政治学科を卒業ののち、政策研究大学院大学、東京大学でオーラルヒストリーによる政策研究に参画する。米・ハーバード大学客員研究員、台湾・国立政治大学客員副教授などを経て、現職。オーラルヒストリーを用いた研究、教育を続ける。著書に『原敬』(中公新書、2021年)、『The Origins of Modern Japanese Bureaucracy』(英Bloomsbury、2019年)など。

報告内容
これまで政治家、官僚といった「公人」を中心としたオーラルヒストリーに取り組んできた立場からすると、歴史・人生・物語という本シンポジウムのテーマはとても魅力的に映る。彼ら彼女らのばあい、公的な人生と私的な人生が一体となっており、一体となったところに物語が生まれているからだ。報告では、この公と私の関係を歴史、人生、物語を補助線に考えてみたい。

第4報告 岸政彦

1967年生まれ。社会学者・作家。立命館大学先端総合学術研究科教授。研究テーマは沖縄、生活史、社会調査方法論。主な著作に『同化と他者化──戦後沖縄の本土就職者たち』『街の人生』『断片的なものの社会学』『マンゴーと手榴弾──生活史の理論』『東京の生活史』(編著)『質的社会調査の方法──他者の合理性の理解社会学』(共著)など。小説に『ビニール傘』『図書室』『リリアン』(第38回織田作之助賞受賞)など。

報告内容

2015年から始めた「沖縄戦と戦後の生活史」プロジェクトを紹介する。現在までに沖縄戦体験者60名から、戦争体験と戦後の暮らしを含めた詳細な生活史を聞き取っている。本報告では、この調査から得られた語りをいくつか参照し、戦争と占領という巨大な歴史的事件が「個人」によってどのように経験され、語られるかについて考える。個人の経験と語りを、マクロな歴史と構造に結びつけて理解することがここでの目標である。

沖縄社会学会 第4回大会

沖縄社会学会のお知らせです。今年もオンライン開催です。

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沖縄社会学会 第4回大会
日時:2021年12月4日(土)10:00〜16:30
zoomにてオンライン配信(予約制・申込された方に後日アドレスをお送りします)
参加無料

予約申込はこちらです。

https://docs.google.com/forms/d/1F3dIwPTJx5dwGsDxLItNp_b845R95Kb7roRtyf6V0AQ/viewform?edit_requested=true

10:00 第1報告
田辺俊介(早稲田大学)
「沖縄におけるナショナル・アイデンティティ ──その担い手と政治意識との関連の実証分析」

11:00 第2報告
米田幸弘(和光大学)
「沖縄における「基地問題」意識の世代差(仮)」

12:00〜12:50 休憩

12:50 第3報告
タナパット・チャンディッタウォン、鈴木規之(琉球大学)
「公共圏としての「共通空間」による国民国家周辺のコンフリクト解決の可能性ータイ深南部三県と沖縄の事例からー」

13:50〜14:00 休憩

14:00 シンポジウム「琉球沖縄を生きた民の歴史―沖縄戦記録、郷友会調査から」
 はじめに(岸政彦) 14:00-14:05
 基調報告(石原昌家) 14:05-15:05
 休憩 15:05-15:20
 コメント1(上原健太郎) 15:20-15:40
 コメント2(平安名萌恵) 15:40-16:00
 総括討論 16:00-16:30

16:30 終了

あじさいと猫、小さな神社と大きな階段、少年と犬

 弁天町の駅から歩いてすぐのところに、安治川の一部を四角く切り取ったような不思議な内港というか船溜まりがあって、土日は行き交うトラックもほとんどいないので、たまに散歩しに行く。工場や倉庫に囲まれ、大きなクレーンや素っ気ない小型タンカーが静かに並んでいる。海は汚いけど、とても美しい。

 その日もその不思議な風景が見たくて、環状線に乗ったのだが、いつまでも続く緊急事態のせいで人恋しくなり、住宅地を歩きたくなって、野田駅で電車の扉が開いたときに飛び降りた。6月6日の日曜日の、17時ごろ。

 野田駅前のファミマに警官が5人ぐらいいて、入り口に黄色い「非常線」みたいなものが張ってあって、えらい騒がしかった。コンビニ強盗でもあったのだろうかとtwitterを検索したけど、何も出てこない。

 そのまま南にまっすぐ歩く。大通りの一本路地裏の、旧街道のような道。古い長屋が並んでいるが、ところどころ新しいマンションや建売になっている。「シャーメゾン」みたいな名前の低層マンションがあって、植栽が今風でおしゃれだった。オリーブの木とか。

 細い道がさらに二股に分かれるところの、その鋭角三角形の土地に「分譲中」ののぼりが立っていた。おさい先生と、ここに家を建てるなら間取りはどうするか、という話をする。いちばん先の尖ったところを駐車場にするか庭にするかで意見が分かれる。結論は「どうでもええわ。」

 角地に解体工事の現場がある。長屋だろうか。あとからGoogleMapを見てみると、まだ古い長屋が写っている。白いタイルが外壁の下のほうにきれいに貼ってあって、もとは何だったんだろうか。牛乳屋さんとかかな。

 古い長屋が並ぶ。かならず玄関前や植え込みにあじさいが咲いている。大阪の路地裏にいちばん似合う花はあじさいだと思う。

 特にたくさんあじさいが並んでいる路地があって、誘われるようにその路地の裏に入っていく。こんな狭いところによく建てたな、と思うような建売住宅がいくつかあり、生活感あふれるその1階のガレージの奥にまたあじさいが咲いていて(日当たりが悪くても咲くんだな)、その奥のヨドコウ的な何かの上に、はちわれの猫がいた。はちわれの柄のところが縞のタイプ。ぼんやりとこちらを見ている。飼われて、大事にされている猫は、人懐こくなくても、どこか警戒心がなく穏やかな感じで、じっとひとの顔を見る。

 意外なことに路地のどんつきに小さな小さな鳥居がある。知らなかったら絶対に入ってこないような路地の裏のまたその奥の、幅が1mもないような道に、小さな、でも色鮮やかな鳥居が二つ三つ並んでいる。

 こんなところに神社が、と驚く。とにかく入っていくと、ほんとうに小さな小さな社がある。鳥居に「宝大明神」「宝会有志」と書いてある。そして意外に新しい日付が書かれていた。

 あとから検索したら「宝稲荷大明神」とあった。地元のひとなら知ってるんだろうか。新しい鳥居が建てられていて、社も掃除や手入れが行き届いていた。地元に根づいて愛されているのだろう。詳しい情報はネットでもほとんど出てこない。

 しばらく野田2丁目、3丁目、5丁目あたりの、古い長屋が並んでいる街を歩く。なぜか路地裏の玄関先に、200kgまで計れる大きな古い体重計が置いてあった。

 すこし傾きながら東西にまっすぐ一本に伸びる不思議な道があり、市電が通るほどの幅はなく、いまでもいくつかの商店が開いていて、ここは昔は賑やかな商店街だったのだろうか。だんだんと日が傾いてきて、地元の子どもや中高生、若いお母さんが自転車で行き過ぎる。いっせいに長屋からおばあちゃんたちが出てきて、おたがいに他愛ない会話をしながら、玄関先のあじさいに水をやる。

 まっすぐに伸びる道の、東の果ての、地面や空や左右の屋根が1点に交わるところに巨大な高層ビルが見えている。いつまで歩いてもすこしも近くならない。調べたら「ザ・パークハウス中之島タワー」というタワマンらしい。中之島や北浜や天満橋のあたりはもう、タワマンだらけになりましたな。なんとなく大阪も都会っぽい景観になってきた。でもあれ、50年ぐらい経ってもちゃんと住めるのかなと、要らんことを心配する。

 昭和の街をぶらぶらと歩いていると、とつぜん、もっと昭和な建物が現れる。「野田コミュニティセンター」と書いてある。

 70年代ぐらいに建てられたのだろうか、まっすぐに四角い白い建物で、入り口や2階の窓にビニールの庇が付いていて、鮮やかな緑色だ。広い庭か駐車場かよくわかんないスペースに大きな木がいくつも生えていて、その新緑の緑も鮮やかで、そして玄関先にはまた小さな鉢植えがたくさん並んでいて、どれも丁寧に手入れされて、可愛がられている。大きな手すり付きの階段がまっすに二階まで登っている。四角いアルミの窓枠。ひび割れたモルタルの地面。なにもかも懐かしい。

 大阪市には市民向けの施設がたくさんあって、各区にこういう「公民館」みたいなものがある。呼び方は区によって違っていて、福島区だと「コミュニティセンター」だが、その他の区では「地域集会所」「福祉会館」などの呼び方がある。基本的には町内会や町内会連合会が管理していて、市民が自由に使えるようだ。

 町内会の寄り合いとかで使っているんだろうけど、たぶん昔からずっとここに住んでる「地」のひとたちで、だから新しくタワマンとかに引っ越してきたひとたちは、ひょっとしたらこういう会館があることすら知らないかもしれない。

 昭和な会議室はほんとうに素敵だと思う。素っ気ないが開放感のあるトイレ、薄暗い階段、緑色に光る非常口の灯り、入り口の色あせた黒板には白いペンキで予定表の枠線が描かれている。こういうところの会議室で、がっちゃんと開いて使う、重い折りたたみの木目調のテーブルに、白地に紺色の水玉模様のでかい急須を置いて、ぬるくて薄いお茶を飲みたい。
 こういう空間は残しといてほしい。

 そしてまだ歩く。まだまだ歩く。
 目的もなく、ただぽつりぽつりとくだらない話をしながら、まだ歩く。

 大きな、古い団地のようなものがある。1階はシャッターが閉まっていて、工事中だ。

 その横を通りかかったときに「おお」という声が出た。建物の外の壁に、1階から2階までまっすぐに伸びる大きな階段が付いていた。1階は倉庫か工場だったようで、天井が普通の2階分ぐらいまであるから、普通のマンションなら3階ぐらいのところまで階段が伸びている。

 エレベーターがないのだろうか。この階段を毎日上り下りするのは大変だと思う

 しかしこの階段、「エモい」という言葉で簡単に表現できないほどの、どういう言い方で言えばいいのかわからないような、「味」がある。なにかの物語がここから急に始まるような、強烈で強力な喚起力がある。

 ああ、ここで映画を撮りたいな、と思った。とりあえず何枚か、いろんな角度で写真を撮る。世界でいちばん物語性のある階段とちゃうかこれ。

 検索したら「公社西野田住宅」というらしい。いきなり「公社」から始まってるのも、なんか良い。公団ではなく普通の賃貸住宅らしく、たまに物件が出るようで、いくつかの不動産サイトに部屋の写真もある。きれいにリノベして、無垢板の床になっているようだ。北欧の家具とかが似合いそうな、今風の内装になっていて、家賃も安いので、思わず借りたくなる。

 とにかくこの階段がとても良いので、お近くの方はいちどご覧ください(お住まいの方に迷惑にならないように気をつけてね)。

 よくわからないけどとにかくエモい階段との出会いに感動してさらに歩いていると、だんだんと市場っぽい会社が増えてくる。なにかの食品の卸会社っぽい。するとすぐにでかい壁で道が行き止まりになっていて、ああ中央市場に来たんだなとわかる。

 途中で見つけたミニストップに入ったら、幅50cmぐらいの沖縄フェアをやっていた。南風堂の雪塩ちんすこうと小さいコーラを買う。ちんすこうで一番うまいのは普通にこの雪塩ちんすこうだと思う。ミルク味よりノーマルのほうがうまい。宮古島の塩を使っているらしい。関係ないけど大阪にも「みやこじま」ってあるよね。

 ちんすこうをかじりながらぼんやりと歩く。紅芋タルトの裁判でモメたのは南風堂じゃなくてナンポーと御菓子御殿だっけ。御菓子御殿はたしか昔はポルシェっていう名前だった。なんでポルシェにしたんだろうね。

 まだ歩く。市場沿いに歩くと安治川に出る。中央市場前の、川沿いの公園で、さすがに一休み。よっこいしょと座ってほっと一息して前を見ると、川面が夕方の光を反射してきらきらしている。どこに住んでいるのか、猫がのんびりと公園を歩いている。

 おっちゃんが柴犬をふたり連れている。犬猫好きなのが犬猫にも伝わるのだろうか。だいたいの散歩中の犬が、いつも私に寄ってくる。その柴犬たちもめっちゃこっちを見ている。すみません、と声をかけて、ヨシヨシさせてもらう。ちょっとこわがりだったけど、めっちゃヨシヨシさせてもらった。

 聞けばひとりの柴犬の名前は「おはぎ」らしい。うちの猫もおはぎっていう名前なんですよ、とかそういう話をする。写真撮らせてもらったらよかった。

 柴犬のおはぎも(もうひとりの子も)可愛がられていた。

 すぐあとにランナーのおっちゃんが、やっぱり柴犬を連れている。

 柴犬多いなこのへん。という会話をおさい先生としていると、小学生ぐらいの少年が柴犬を散歩させていた。

 柴犬めっちゃおるやん。

 ぼんやりと座って見ていると、少年は親友と一緒にいちばん下の川べりまでいって、そこで座って、肩を並べてじっと川面を見つめていた。
 映画みたいだった。

 なんかもう、大阪のこのあたりは本当に、絵になる風景ばかりだ。

 川の向こうに住友倉庫。私が大阪に来た34年前からずっとここにある。1929年に建てられたらしい。このあたりはもともと外国人の居留地で、川口教会という、戦前からあるレンガ造りの教会もある。現在の聖堂が建てられたのは1920年のことらしい。

 歩いていると西警察署の前に来た。34年前の思い出が蘇る。大阪にやってきたばかりの、関大の1回生だった私は、バイト情報誌に堂々と掲載されていた、「時給3000円の家庭教師バイト紹介します。ただし登録料5000円ください」というわかりやすい詐欺に引っかかったのだ。5000円を振り込んだあとぜんぜん連絡がなくて、私もたいがいアホなのでそのまま忘れていたら、ある日突然電話がかかってきて「あー西警察署のもんやけど。キミね、詐欺の被害者なっとるで」「ええええ」「犯人捕まった」「へえええ」「とにかく一回署まで来て被害届出して欲しいんやけど」「はいはい」ということで、私はすぐに西警察署まで行った。

 下宿は上新庄で大学は関大前、遊ぶところは梅田かミナミで、当時の私は大阪のことを何も知らなかった。だから「西警察署」がどこにあるのかもまったくわからず、とにかく地図を見ながらなんとかたどり着いたら、そこは古いレトロな警察署で、受付で名前を名乗るとそのまま2回の刑事課に通され、出てきたのはスキンヘッドの巨漢のおっさんで、いやお前がヤクザやろ、という刑事さんだった。さすが大阪府警。そして部屋の奥の方の仕切りの向こう側から「舐めとったらあかんぞコラァァァ」という怒鳴り声が聞こえてくる。

 そこで私は言われるままに被害届の書類を書き、サインをした。その刑事のおっさんはヒマだったのか、「にいちゃんは大学で何の勉強をしとるんや?」と聞かれた。「社会学です」「何やそら」「えーと、いろんな社会問題とかの研究です」そしたらそのおっさん、笑いながら「それが何の役に立つんや?」と聞いてきた。

 なぜか私はめちゃめちゃ腹が立って、「学問はそれ自体で価値があります。なにかの役に立てばいいってもんじゃないです」と言い返した。

 そしたらその刑事のおっさん、大笑いしながら「そのとおりやな」と言った。私はちょっとびっくりして、一緒に笑った。ああ、このひと大人だな、とそのとき思った。

 5000円は返ってこなかったけど、いつまでも妙に記憶に残っている。

 あの刑事さん、元気かな。とっくに定年退職したと思うけど。

 そしていま気づいたけど、「いろんな社会問題を研究する学問」という社会学の定義、いまだに使っている。19歳の俺が西警察署で、スキンヘッドのおっさん刑事と交わした会話のなかで咄嗟に使った定義を、いまだに教科書でも書いてます。

 おっさん、ありがとう。

 と言ってるうちに掖済会病院。看板にカタカナで病院名が書いてあるので、ぱっと見たら「エキサイト病院」に見えた。

 大阪ドームに着く前に東へ曲がって千代崎橋で木津川を渡り(右手にまたタワマン)、またちょっと南下して立花通りの家具屋街。オレンジストリートっていう名前になっていて、若い子むけの古着屋とかがたくさん並んでいる。木津川を渡ったあたりから、通りを歩いてるひとたちの服装や髪型が一気にミナミっぽくなる。

 南堀江を歩くのも10年ぶりぐらいちゃうか、とか言いながらアメ村へ。

 アメ村はみんないちおうマスクしてるけど結構な人出で、若い子たちが楽しそうに歩いている。三角公園では相変わらずスケボーやってそうな若い子や外国人がたくさん。

 そろそろ疲れてきたので心斎橋で地下鉄に乗って帰りました。3時間、1万7000歩。

だいたいいつもこんな散歩をしている。19で大阪にやってきて、いつのまにか53になった。

磯ノ浦

小説『図書室』の最後に出てくる、和歌山の磯ノ浦に行った。次の『リリアン』という小説の単行本の裏表紙に使いたくて、わざわざ真冬に写真を撮りにいった。

小さな子どもとお母さんがいた。風が強くて寒かったけど、広くて静かで、波の音がして、そしてやっぱり風が強くて寒かった。

帰りは和歌山市の駅前でハンバーガーを食べた。

上記の『図書室』のリンク先で、川上未映子さんが書いてくださった書評が読めます。「この物語を紡ぐ言葉は、すべてこの瞬間のためにある。言葉以前、犬や猫や風とおなじになるような、その一瞬をこそ目指している」。……ありがとうございます。

大学4回生のときに行って以来、30年ぶりぐらいに訪れた。海は変わらずにそこにあった。

沖縄社会学会 第3回大会

沖縄社会学会 第3回大会

日時:2020年11月22日(日)10:00〜18:00
zoomにてオンライン配信(予約制・申込された方に後日アドレスをお送りします)
参加無料・要予約(実名でご予約ください)。

参加申し込みはこちら。会員でなくてもどなたでもご参加いただけます。
https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSeYlAgqMzDIXCNruAZaxChaInC4lbaY9qYppepCA5phkZleaA/viewform

10:00 第1報告
玉城尚美(お茶の水女子大学大学院)
那覇市と沖縄市/男女首長下での組織における職階配分とジェンダーバイアスについての分析・考察
11:00 第2報告
平安名萌恵(立命館大学大学院)
「沖縄的共同体論」とジェンダー──シングルマザーの生活史から

12:00〜12:30 休憩

12:30 第3報告
森啓輔(日本学術振興会海外特別研究員)
ドイツと沖縄のPFOS汚染問題の行政過程の比較
13:30 第4報告
野入直美(琉球大学)
〈沖縄─奄美〉の視点で見る米軍統治時代の沖縄社会

14:30〜14:45 休憩

14:45 シンポジウム「1970〜80年代の沖縄を考える」
14:45〜15:30
秋山道宏(沖縄国際大学)
1970/80年代沖縄を問う視座──沖縄の「豊かさ」再考
15:30〜16:15
上原こずえ(東京外国語大学)
運動と生活のはざまで:資本主義に抗う沖縄青年労働者の自立と相互扶助
16:15〜16:30 休憩
16:30〜18:00 討論

18:00 終了

確率とともに生きる

新型コロナウィルス、というものが流行っていて、この春はすべてのイベントが中止や延期になり、公的な施設には閉鎖されるところもでてきて、学校も全国で一斉に休校にするかどうかという話があり、そのわりには朝の満員電車はあいかわらずで、それからやっぱりデマもとびかっている。

ドラッグストアやコンビニの店頭からマスクが消え去り、さらにトイレットペーパーがマスクと同じ材料で、もう中国から入ってこなくなるので売り切れるだろうというデマがひろがって、トイレットペーパーも店頭からなくなった。コストコに長蛇の列ができたとか、対応していたドラッグストアの店長が鬱になったとか、そういう記事をたくさん読んだ。

いったい誰がどういう意図で流すのか知らないけど、30度ぐらいのぬるま湯を飲むと熱に弱いコロナが死ぬ、というデマもかなり広がって、さすがにこれは笑った。体温より低いやん。

まあ、しかし笑えない。若年者の致死率は低いから学校を休みにするのはデメリットのほうがでかいとか、通常のインフルエンザの対策で十分とか、おおぜいがいっせいにイベントや歓送迎会を自粛することの経済的なダメージをどうするとか、そういうことをみんなが言って、そしてそれはすべてその通りなんだけど、でも私たちや、私たちの家族の人生は一度きりしかない。

この、それぞれの個人の人生が一度きりしかない、という根源的な事実によって、私たちはデマに抗うことが難しくなっている。

マクロなレベルでは、新型ウィルスに罹患して死ぬひとの数は、ごくわずかかもしれない。だけど、じゃあ、それがお前だったらどうする?

社会全体のなかではわずかな確率でしかないものが、それに当たったときには、私たちは私たちの人生のすべてを差し出さなければならない。

この、全体的な確率と、個人的な人生との、極端な非対称性のことを、いつも考えている。沖縄戦では、大勢の一般市民が犠牲になった。生き残った方がいま、私にその物語を語っている。ほんのわずかの確率のずれで、その場で亡くなるひとと、そのあと生き残って子や孫を大勢育ててきたひととの差が生まれる。亡くなった方と生き残った方を明確に区別するような理由も原因もない。そこには意味すらない。沖縄戦の生活史の物語は、「それは私でもよかったはずだ」の連続である。

たとえば、致死率がわずか0.1%の、弱いウィルスの感染が、いま広がっているとしよう。感染したひと千人のうちひとりしか死なない。そしてあなたも、あなたの家族も、まだ誰も感染すらしていない。そこに、「このウィルスは大豆にふくまれるタンパク質に弱く、豆腐を大量に食べると致死率が半分に減る」という噂が流れる。もともとわずかしかない致死率が、ただ半分に減るだけで、しかも出どころも根拠も怪しい話だ。

でも、たとえば自分に子どもがいたら、スーパーで豆腐を買わずにいられるかどうかを考える。買ってしまうのではないか。

「1万人にひとり」「10万人にひとり」「1億人にひとり」……でも、ひとりはひとりだ。そして私たちはすべて例外なく、「ひとり」としての人生を生きている。9999人が生き残ったとしても、「私」が死ねば、それは世界のすべてがなくなってしまうことを意味している。あるいは、私の家族。犬や猫。

逆の場合もある。確率のもとで死ぬこととは逆に、確率のもとで生まれること。

不妊治療に5年以上の時間と、数百万円の金を無駄に費やした。最後には、特に連れあいのほうは、毎月、排卵のタイミングに合わせておこなわれる治療で、心身ともにぼろぼろになった。私も全身麻酔の手術を2回おこなった(私は重度の無精子症だ)。

でも、「次の1回」の可能性がゼロでないかぎり、なかなか止めることができなかった。可能性が0.1%でも、もしそれを射止めることができたなら、そのときは「すべて」を得ることができる。もちろんこのすべてという表現は大げさなものだが、それでもその治療をしている最中はそれがすべてだった。だから、なかなか止めることができなかった。

「次の1回は……」という確率がいかに低くても、それですべてを得られるなら、私たちは、そしてあなたたちも、何度でも次の1回に賭けてしまうだろう。

不妊治療をしてみて強く思ったのは、この「業界」に、いかにスピリチュアルなニセ医学や怪しげなホーリスティック治療や悪質な詐欺がまかり通っているか、ということだった。「柘榴の絵を玄関に飾ると子宝に恵まれる」(種が多いからだろうか)というたわいもないものもあったが、悪質なものも含めて、それに騙される人びとのことを、私は笑えない。いや、まあ、よっぽどのときは笑うけど(「お湯でウィルスが死ぬ」とかね)、でも、すくなくとも全否定する気にはならない。いや、否定せなあかんねんけども。

私たちは、確率というものと共に生きていけるほど、賢くはないのだ、と思う。まだ人類はそこまで進化していない。自分たちや、愛する家族がもしウィルスに感染して死んでしまったら、それは私たちにとっては、すべてを失うことと同じである。

確率がいかに低いか、ということを合理的に教えられても、私たちは、それが私たちのすべてを奪い去るものであるかぎり、それで納得はしないだろう。

私たちは、確率の数字では「癒されない」のだ。

だから、私たちが確率の低さに納得しないということは、それはそれで、広い意味で合理的なことなのかもしれない。

だからたぶん、デマを封じ込めることは、ウィルスを封じ込めるのと同じぐらい難しいんだろうと思う。

でもデマはダメだよ!!

つっぱり棒と子どもの手 ──生活史調査は何を聞くのか

もうずっと前、10年以上前のこと。当時勤めていた大学の学生たちを連れて、神戸の某所で、阪神大震災で被災した語り部の方のお話を伺ったことがある。

まだ若い女性の方で、静かな、穏やかな声で、瓦礫に埋まった近所の小さな子どもの手をずっと握っていた話をされた。その手がだんだん冷たくなっていったんです。

学生たちも泣いたし、私も泣いた。終わってからその方に、こんな辛いお話を大勢の人びとの前でなんども何度もするのは、ご自身が辛くありませんか、と聞いたら、すこしきょとんとしていた。そんな感じがした。とにかく、この話をひとりでも多くのひとに語らなければならない、と思っていたのかもしれない。その話をするときに、自分がしんどいかどうかなんて、考えたこともなかったのかもしれない。

次の年に、またおなじところで、またその年の学生たちを連れて、震災の語り部の方のお話を伺った。

その方は年配の男性の方だったのだが、個人的な体験談はほとんどなくて、地震の直前に地震雲が出てましたとか、携帯ばっかり見ていたら、地震が起きたときに対処できませんよとか、そういうお話をされていた。そして後半はずっと、タンスと天井のあいだにつっぱり棒をかましましょう、という話をしていた。

私も学生たちも、正直、退屈だった。学生のなかにはぐっすりと寝てしまうやつもいた。

……しかし、終わってから私は、このことについてずっと考えている。で、結局俺は、何が聞きたかったの? 個人の、可哀想な、悲惨な話を聞いたら、俺は満足したの??

つっぱり棒の話も、それはそれで、とても重要じゃない?

一方で、学生たちは退屈で寝てしまっていた、ということも事実なのだが、でもまた同時に他方で、じゃあめちゃめちゃ泣けるような、可哀想な、悲惨な話だと、「おもしろかった」って思うの?

しかし、そしてまたさらに、いやそうはいってもやっぱり、子どもの手の話は、とても重くて、切実で、真剣で、そして何よりもそれは、「事実」だった。私はあの語りを聞けて、ほんとうに良かったと思う。ずっと覚えている。

いやいやしかし、だからと言って………

こんな調子でいつも、おなじところをぐるぐると回る。

私たちは、「何を」聞いたらいいんだろう。私たちは、どういう話を聞いたら、「満足」するのか。

ずっと考えている。

沖縄戦の経験を聞いている。戦争中の話だけじゃなくて、そのあとの、戦後の話もぜんぶ聞いている。

高齢の男性の方だと、しばしばあるのが、個人的な体験ではなく、「沖縄戦とは」という一般的な知識について長々と語る。そういうことがよくある。

ずっと昔、まだ沖縄での調査をやりだした、まだ若かった頃は、こういう「一般的な知識を教えてくれる語り手」というものが苦手で(面白いことにそれは皆男性である)、いそいで個人的な経験についての質問をしていたのだが、もう20年も前のことになるけど、あるとき、いやそれはそれでおかしいんじゃないかって思えてきた。

個人的なことばっかり聞きたがるのって、何でだろう。どうして、「沖縄戦っていうのは(当時は沖縄戦の調査はまだはじめてもいなかったが)、昭和何年何月に始まり……」っていう語りよりも、「そのとき私は浦添にいて、親に連れられてやんばるのほうまで徒歩で避難して……」という語りを、私は聞きたがるんだろう。

なんか違うのではないか、と思うようになり、それからはずっと、例えば沖縄戦の聞き取りでも、ほかの何の聞き取りでも、一般的なお話もすべて聞いている。もうそれは、「琉球王朝はそもそも」ぐらいに遡るお話でも、ぜんぶ聞く。

それもまたそのひとの人生の一部だからだ。聞き取りのなかでよく聞いてみると、1945年の3月には読谷じゃなくて石垣島にいました、っていうこともある。でもそのひとにとっては、3月に米軍が沖縄に上陸した、ということも、そのとき石垣島にいたっていうことも、両方とも、そのひとの人生の一部なのだと思う。

だから、全部聞いている。糸満を裸足で逃げ回って、爆弾の破片が祖父に当たって、内臓が飛び出ているのを家族みんなで手で押さえてました、という話も聞くし、そのときは宮崎に疎開して、のんびりと暮らしていました、という話も聞く。

みんな沖縄の人生だ。

でもやっぱり、おじいさんの内臓の手触りはどうだっただろうか、ということを思う。瓦礫の下の子どもの手の温度はどうだっただろう、ということを思う。

うまく言えないけど、どの語りも、どの語り手も、否定したくない。だからもう、全部聞く、とにかくたくさん聞く、ということを自分に課している。

そして、その上で、手や内臓のことを思う。

(このエントリの語りの部分は大幅に変更を加えています)