写したんです。

最初に鈴木育郎さんとお会いしたのは太田出版の『atプラス』の「生活史特集号」の撮影のときで、なぜか私の写真が表紙になるということで、恥ずかしかったけど、どうせならと撮影場所には大阪の京橋という下町の盛り場をお願いした。

はじめて会った鈴木さんは、背の高い、男臭い、ボクサーみたいなかっこいい人で、真っ赤なコートを来て、手ぶらで京橋駅の改札に現れた。「え、手ぶらなんですか」って聞くと、ポケットからボロボロの古いニコンを出して、これ一台だけです、レンズもこれだけで十分ですと言った。やられた、この人かっこいい。

撮影も楽しかったけど、フィルムで撮られた写真がほんとうに、とても素敵で、そのときの写真はいまでもときどきプロフィール写真として使わせてもらっている。

いいよなあ、フィルム。

もちろん鈴木さんの足元にもおよばないけど、なんとなく自分でも遊んでみたくなって、よく見ると近所のコンビニや写真屋さんで、いまだに写ルンですが売られている。聞けば、「リアルにインスタみたい」ということで、また流行ってるらしい。ええことや。

というわけで、15年ぶりぐらいに写ルンですで遊んでみた。

なつかしかった。最初にシャッターを押すとき、どうやって対象物を確認するのか、わからなかった。ファインダーを覗くという身体動作自体を忘れていたのだ。

フィルムは27枚しか入ってないので、iPhoneみたいにばしゃばしゃ撮れない。1枚ずつ大事にシャッターを押す。撮り終わったあとも、なんとなくめんどくさくてデスクの上に置きっぱなしになってて、やっとついこないだ写真屋さんに持ち込んだ。すでに15年前からあるサービスだったけど、いまでもCD-ROMとか他のメディアにデータを焼いてくれる。

そして現像を待つのも2、3日かかる。なんてのんびりしてるんだろう。

ひさしぶりに撮った写ルンですの写真は、とても「個人的」な写真だった。

その村の人びとはみんな同じ日に生まれた

沖縄に流れる独特の時間を共有することは、私たち内地の人間にとっては、ほんとうに難しい。先日、那覇で乗ったタクシーのおっちゃんから、面白い話を聞いた。そのおっちゃんは50代後半ぐらいだったんだけど、その両親が、かなり歳の差が離れているにもかかわらず、同じ誕生日なのだという。

私は最初、わけがわからなくてぽかんとしていたのだが、よく聞くとこういうことだった。戦後、彼の両親の村は焼け野原になった。そのために、村の人びとの戸籍をもういちど作り直すことになった。そういうことは、戦後の沖縄ではよくあったらしい。

そのときに、当時の区長(自治会長)が、村の人びと全員の誕生日をあらためて調べるのが面倒だったので、すべて「自分の誕生日で」申請してしまったという。

だから、その地区の住民は、若いひとも年寄りも、男も女も、すべて同じ生年月日なのだ。

こういう感覚。

こういう感覚は、いちど焼け野原にならないと、生まれないのではないか。焼け野原になって、そして日本やアメリカのはざまでいいように扱われ、ふみつけにされた土地でないと、こういう感覚は生まれないのではないか。

     *  *  *

「沖縄的なもの」について、社会学者は好んで語りたがるが、また一方で、そうした沖縄的なものの語りのなかにひそむ素朴な本質主義の危険性についても語られている。私たちは、沖縄の人びとの暮らしのなかの「独特の感覚」を語るとき、ついそれを文化的DNAだの、独特の風土などという、くだらない、無内容のものに還元してしまう。

しかしまた、それを批判する人びとは、「沖縄的なもの」は単なる語り、あるいは「カテゴリー」で、そのつどのその場の会話のなかでやりとりされ、「構築される」ものにすぎないと言ってしまう。そのときそれは、ただの嘘、フィクションになる。

私は、沖縄的なものは、「ほんとうにある」と思っている。あるいは、もっと正確にいえば、ほんとうにあるのだということを私自身が背負わないと、沖縄という場所に立ちむかうことができないような気がしている。

でもそれは、文化的DNAとか気候風土とか、そういうことじゃなくて、おそらくはもっと世俗的なものと関係があると思っている。また、そのように世俗的に語らなければならない、と思っている。特に、ナイチャーとしての私は。

     *  *  *

こういうことについて、ある沖縄戦体験者の語りから、私は短い文章を書いた。

「海の小麦粉──語りにおける複数の時間」
現代思想2017年3月号 特集=社会学の未来
http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3018

これは、現在のなかに折りたたまれている過去についての物語であり、あるいは、不意に海から流れてよせてくるものについての物語である。

この論考は、いずれ出ることになっている、『生活史の理論』という本のなかに再録されますが、お読みいただけたらうれしいです。