某大学から依頼されて新入生用の人権パンフレットの原稿を書きました。そのうちの一部をこちらにも置いておきます。
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放置される子どもたち──日系ブラジル人の教育問題──
現在、日本に住む外国籍の住民はおよそ200万人、これは全人口の約1.5%にあたります。もっとも多いのが中国人で67万人、ついで(在日コリアンを含む)韓国・朝鮮籍の人びとが55万人。3番目に多いのが、知らないと意外に思うかもしれませんが、ブラジル人で、21万人です。リーマンショック以降の製造業不況や東日本大震災の影響などで、ブラジル人は若干その数を減らしていますが、日本経済の長引く低迷にもかかわらず、中国人を中心として、日本社会に暮らす外国人たちは着実にその数を増やしています。日本はすでに「多民族・多文化国家」になりつつあるのです。
大阪には非常に多くの在日コリアンの方々も暮らしていますが、ここでお話するのは、90年代以降に新しく日本にやってきた「ニューカマー」と呼ばれる人びとのことです。特に滋賀県に住む日系ブラジル人と、その子どもたちについてお話ししたいと思います。
ニューカマーの中国人や韓国人が比較的都市部に多く、留学生として大学や専門学校で勉強したり、飲食業などのサービス産業で働いているのに対し、日系ブラジル人たちは、どちらかといえば群馬県や静岡県、そして関西では滋賀県などの郡部で、大きな工場で派遣労働者として働いている人が多数をしめています。
時はバブル期にさかのぼります。1990年、人手不足に苦しんでいた製造業を救うために、日本政府はほんのちょっとだけ、外国人に対して門戸を開放しました。
ハワイや南米には、戦前の貧しい時代に日本から移民に渡った膨大な数の日本人移民とその子どもや孫たちが住んでいるのですが、この「日系」の人びとに対して「定住者」資格を与え、事実上日本国内での居住と労働を認めたのです。ただ、この定住者も、いわば「里帰り」のような名目で国内居住を認められたにすぎません。同じ南米人でも親族に日本人がいる場合に限られます。「ほんのちょっとだけ」というのはこういう意味です。
さて、このように日本の閉鎖的な門がほんのちょっとだけ開いたのですが、そのわずかなすきまから大量の日系南米人、特にブラジル人が入ってきました。もっとも多いときで30万人以上のブラジル人が日本で暮らしていました。ここ数年、不景気でややその数を減らしていますが、それでも20万人はブラジルに帰国せず、日本国内で暮らす道を選んでいます。なかには日本企業の正社員になり、マイホームを手に入れた人びともいます。ブラジル人の多くは、さきほども書いたように、日本の地方で自動車部品などを作る大きな工場で、派遣労働者として働いています。ブラジル本国から日本に連れてくるリクルート会社もたくさんあります。
ブラジル人の給料は日本人の派遣労働者とかわりありませんが、雇用の不安定さが生活ぜんたいの不安定さに結びつくリスクが、日本人と比べて非常に高いです。リーマンショックのときに多くの製造業が会社を守るために(日本人を含めた)労働者を切り捨てました。そのなかでもブラジル人たちは特に深刻な状況になりました。遠い国から単身や少人数の家族でやってきて、誰も頼る人もなく、住むところは会社の社宅、という人がたくさんいました。こういう状況で首を切られ、仕事や家族、住居まで、すべてを失うブラジル人が、いまでもいるのです。
日本には、外国人の出入国管理政策はあるが、外国人の定住政策は存在しないとよく言われます。「定住者」資格は与えられましたが、病気になったとき、失業したとき、家を失ったとき、家族が困ったとき、そのほか生活していくなかで誰でも遭遇するトラブルにたいする保障がまったくありません。日本の政策は「外国人を入れただけ」に等しいものがあります。
特に深刻な状況になっているのは、ブラジル人の子どもたちです。現在、日本には100近くのブラジル人学校があると言われていますが、そのほとんどすべてが私設の学校であり、日本政府からは補助金がおりず、学費がとても高くなります。基本的に授業はブラジルでの使用言語であるポルトガル語でおこなわれ、日本語教育は不十分なところがほとんどです。また、失業や給料切り下げなどで、ブラジル人学校の高い学費が払えず、子どもたちを学校に通わせられない家庭も少なくありません。私が知っているある小学生の女の子は、両親が工場で一日中働いているあいだ、たったひとりで家の中でテレビを見ているだけ、という暮らしを数ヶ月にわたって送っていました。そのあいだ彼女はずっと孤独に耐えていただけでなく、何も教育されず、言葉も覚えないままでいたのです。
それでは日本の学校に通えばいいのではないか、と思います。しかし、日本の公立小学校や中学校に外国人の子どもももちろん通うことはできますが、いまのところポルトガル語しか話せないブラジル人の子どもを受け入れて、いちから日本語をつきっきりで教え、いじめも多い学校のなかで友だちができるようにサポートしてくれるような学校は、ほとんどありません。
さきほどの例とはまた別の女の子は、まったく日本語ができないまま日本の公立小学校に入ったものの、ポルトガル語ができる教師が誰もいない学校で、ただ教室のいちばん後の席に座らさせられ、白い画用紙だけを与えられ、毎日1時間目から学校が終わる時間まで絵を描いているように言われたそうです。その子は耐えきれず一週間ほどで辞めてしまいました。みかねたブラジル人学校の校長先生が、学費が払えないのを承知したうえで、自分の学校に編入させ、いまでは元気に通っています。
そうしたブラジル学校が、日本全国にたくさんあるのですが、補助金もおりないためにどこも経営が非常に苦しく、閉鎖してしまったところもあります。設備も教材も祖末で、雇っている先生やスタッフに払う給料にも困っています。
こういう状況で、やはりもっともしわよせをくらっているのが子どもたちです。正式な日本語教育もポルトガル語教育も受けられないまま大きくなってしまう子たちもいます。「セミリンガル」や「ダブル・リミテッド」といいますが、日本語もポルトガル語も上達しないまま、つまり「どの言葉も正しく使えない」まま、大きくなってしまう子どもたちがいるのです。これは本当に、本当に恐ろしいことです。
滋賀県の愛荘町に「コレジオ・サンタナ」という小さなブラジル人学校があります。私は個人的にここの校長先生と出会ったことをきっかけに、龍谷大学から助成金をいただき、毎週学生有志を連れて、日本語教室のボランティアをしています。私はプロの日本語教師でもありませんし、教材も手作り、週に一回だけの授業ですから、たいしたことはできません。でも、学生たちがブラジル人の底抜けに明るい子どもたちと仲良くなり、言葉が通じないのにまるで家族のように仲良くなっていくのを見てきました。「小さなとこからコツコツと」私たちにできるのはこれしかありません。
閉鎖的な日本の政策や世論が、何の罪もない子どもたちを傷つけてしまうことは許されません。今後も、できる範囲ですが、支援活動を続けていこうと思っています。