そりゃ仲良くできればそれにこしたことはないんですが
- 2010.03.09 Tuesday 19:15
「友だちや彼氏彼女から、『実は私、部落やねん』とか『実は俺在日やねん』とか『実は俺ゲイやねん』とかカミングアウトされたらどうする?」って聞くと、たいていの学生は「そんなの関係ないよ、ひとりの人間として好きだよ」って言っちゃうみたいで、「それ言うたらあかんよ」って言うとみんなびっくりする。
「ゲイだろうが何だろうが関係ない、人間として」っていう言い方は、せっかく勇気を出してカミングアウトした問題に関して「関係ない」って言っちゃうってことだし、とか、部落に対する自分自身の差別意識を変えないまま目の前のそいつだけ特別扱いするだけのことにしかならん、とか、まあこういう話はわれわれの業界ではわりとよく語られる定番の話になってるんですけども、そういうのがまたカミングアウトを無効化する暴力にしかならんのやわ、というと、学生たちはみんなへー、ってなって、わりと最後のレポートでもこのネタで書いてくるやつが多い。じゃあ自分だったら何て言えばいいんだろう、っていうことを、それなりにみんなちゃんと考えて書いてきてくれる。
で、話は変わるけども、そういうレポートのなかで、ちょっといつも気になる定型的な語りがあって、前にもついったの方でちょっと書いたけど、差別とか人権とかそういう授業してると、最後のレポートでかならず何人かいるのが、「僕の仲良しの友だちに在日の子がいて」とか「バイト先に部落の人がいて毎日仲良くしてるんですが」とかそういうのがいる。関西なので十分ありえる話だが、それにしてもさらにそのうちの何割かは作り話なんだろうけど(笑)、なんかこう、個人として思いやりをもって接したらええ、みたいな感覚がある。まああって当たり前なんですが。
いまさいとうがやってる某地域の市民意識調査の分析で面白い結果が出てて、やっぱり「差別はいけない」っていう決まり文句の自由回答の後に、必ず「みんなで思いやりをもって生きていこうと思います」みたいな、「思いやり」っていう言葉が出てくる。差別の反対は思いやりって思ってるのだ。まあ、普通思ってると思いますけども。
関係ないかもしれんけど、こないだたんぶらをずーっと眺めてたら(ものすごい依存性があるよねあれ)、在日コリアンの生活保護に何兆円も使ってるっていうデマコピペが流れてきて、それがけっこうリブログされてて、お前らアホばっかりやなと思いながら見てたんですが、そのなかに、そのコピペにコメントつけてリブログした人がいて、「この現実に、俺の友だちの良心的な在日コリアンも怒り心頭」みたいなコメント。
たぶんこれ、もっともらしい作り話だと思いますが(笑)、なんでこんなことわざわざ書くかっていうと、良心的な人なら在日ですら怒りを覚えるよね、とかだけじゃなくて、こういうことだろうと思うんですけども、俺は今からこのコピペをリブログするけど、それは在日に対して差別意識を持ってるからじゃなくて、純粋にこういう不正行為に対して怒りを覚えるからで、ほら私が差別意識持ってない証拠に、私の友だちに在日の人もいるんですよ、その人も怒ってるんですよっていう、言い訳っていうかアリバイになってるわけですよ。この場合作り話かどうかはぶっちゃけどうでもいいことで、わざわざこういうコメントを付け足すっていうことはそういうことだよな。
どうしてかっていうと、差別するっていうことがどういうことかっていうことに関しては、社会学者だけじゃなくていろんな人がいろんなことを言ってますけども、じゃあ反対に、差別がないっていう状態はどういう状態かっていうことに関しては、俺もふくめてまともにイメージ持ってる人がひとりもいないんだよ。
だからみんな「差別がない状態」と「仲良くしてる状態」とを混同してるわけだ。だから、当事者と個人的に仲良くしてるよっていうアピールが出てくるわけですよ。
まずひとつ、これが何が問題かっていうと、みんなが仲良くしてる状態として差別のない状態を考えると、異議申し立て運動が和を乱すもの(笑)として否定されてしまう。せっかく仲良くしようとしてるのに波風立てやがって。権利権利言うな。お前ら俺たちと仲良くしたいの? したくないの? どっちなの? 仲良くしてやるから選挙権とか糾弾とか戦争責任とか基地撤去とかいちいち言うなよ。みたいな。
これは難しい問題なので簡単にこんなしょうもないブログで書くようなことじゃないけど、確かにたとえば同性愛者やGIDに対する生理的な嫌悪感っていうのは、これは除去した方がいいし、それは可能だし、いろんな人と仲良くなった方が人生楽しいっていうのは、一般的に真実だよな。
でも同時に他方で、当事者と親密であるっていうことが、その当の問題に関しては自分の意識を変える必要がないと思ってることのアリバイというか正当化になっちゃうんだったら、むしろそれは危険だなあと思うわけですよ。それならいっそのこと、仲良く付き合わないけどもそいつらの生き方を邪魔もしない、っていう態度もアリだと思うわけですよ。
まあ簡単に言いますと、差別のない状態っていうのは仲良くしてる状態っていうことと完全にイコールじゃないよね、っていうだけのことです。もちろん、別に当事者うんぬんじゃなくて、誰とでも仲良い方が一般的に良いに決まってますが、それは別の話です。
まあこういう業界でこういう稼業でメシ食ってるといろんなことがあるもんで、当たり前ですが当事者のなかにもいろんな人がいて、みんな善意の被害者の聖人君子ばっかりじゃないですし、逆にいえば研究者のなかにも立派な人はごくわずかですがいることはいます。
「ゲイだろうが何だろうが関係ない、人間として」っていう言い方は、せっかく勇気を出してカミングアウトした問題に関して「関係ない」って言っちゃうってことだし、とか、部落に対する自分自身の差別意識を変えないまま目の前のそいつだけ特別扱いするだけのことにしかならん、とか、まあこういう話はわれわれの業界ではわりとよく語られる定番の話になってるんですけども、そういうのがまたカミングアウトを無効化する暴力にしかならんのやわ、というと、学生たちはみんなへー、ってなって、わりと最後のレポートでもこのネタで書いてくるやつが多い。じゃあ自分だったら何て言えばいいんだろう、っていうことを、それなりにみんなちゃんと考えて書いてきてくれる。
で、話は変わるけども、そういうレポートのなかで、ちょっといつも気になる定型的な語りがあって、前にもついったの方でちょっと書いたけど、差別とか人権とかそういう授業してると、最後のレポートでかならず何人かいるのが、「僕の仲良しの友だちに在日の子がいて」とか「バイト先に部落の人がいて毎日仲良くしてるんですが」とかそういうのがいる。関西なので十分ありえる話だが、それにしてもさらにそのうちの何割かは作り話なんだろうけど(笑)、なんかこう、個人として思いやりをもって接したらええ、みたいな感覚がある。まああって当たり前なんですが。
いまさいとうがやってる某地域の市民意識調査の分析で面白い結果が出てて、やっぱり「差別はいけない」っていう決まり文句の自由回答の後に、必ず「みんなで思いやりをもって生きていこうと思います」みたいな、「思いやり」っていう言葉が出てくる。差別の反対は思いやりって思ってるのだ。まあ、普通思ってると思いますけども。
関係ないかもしれんけど、こないだたんぶらをずーっと眺めてたら(ものすごい依存性があるよねあれ)、在日コリアンの生活保護に何兆円も使ってるっていうデマコピペが流れてきて、それがけっこうリブログされてて、お前らアホばっかりやなと思いながら見てたんですが、そのなかに、そのコピペにコメントつけてリブログした人がいて、「この現実に、俺の友だちの良心的な在日コリアンも怒り心頭」みたいなコメント。
たぶんこれ、もっともらしい作り話だと思いますが(笑)、なんでこんなことわざわざ書くかっていうと、良心的な人なら在日ですら怒りを覚えるよね、とかだけじゃなくて、こういうことだろうと思うんですけども、俺は今からこのコピペをリブログするけど、それは在日に対して差別意識を持ってるからじゃなくて、純粋にこういう不正行為に対して怒りを覚えるからで、ほら私が差別意識持ってない証拠に、私の友だちに在日の人もいるんですよ、その人も怒ってるんですよっていう、言い訳っていうかアリバイになってるわけですよ。この場合作り話かどうかはぶっちゃけどうでもいいことで、わざわざこういうコメントを付け足すっていうことはそういうことだよな。
どうしてかっていうと、差別するっていうことがどういうことかっていうことに関しては、社会学者だけじゃなくていろんな人がいろんなことを言ってますけども、じゃあ反対に、差別がないっていう状態はどういう状態かっていうことに関しては、俺もふくめてまともにイメージ持ってる人がひとりもいないんだよ。
だからみんな「差別がない状態」と「仲良くしてる状態」とを混同してるわけだ。だから、当事者と個人的に仲良くしてるよっていうアピールが出てくるわけですよ。
まずひとつ、これが何が問題かっていうと、みんなが仲良くしてる状態として差別のない状態を考えると、異議申し立て運動が和を乱すもの(笑)として否定されてしまう。せっかく仲良くしようとしてるのに波風立てやがって。権利権利言うな。お前ら俺たちと仲良くしたいの? したくないの? どっちなの? 仲良くしてやるから選挙権とか糾弾とか戦争責任とか基地撤去とかいちいち言うなよ。みたいな。
これは難しい問題なので簡単にこんなしょうもないブログで書くようなことじゃないけど、確かにたとえば同性愛者やGIDに対する生理的な嫌悪感っていうのは、これは除去した方がいいし、それは可能だし、いろんな人と仲良くなった方が人生楽しいっていうのは、一般的に真実だよな。
でも同時に他方で、当事者と親密であるっていうことが、その当の問題に関しては自分の意識を変える必要がないと思ってることのアリバイというか正当化になっちゃうんだったら、むしろそれは危険だなあと思うわけですよ。それならいっそのこと、仲良く付き合わないけどもそいつらの生き方を邪魔もしない、っていう態度もアリだと思うわけですよ。
まあ簡単に言いますと、差別のない状態っていうのは仲良くしてる状態っていうことと完全にイコールじゃないよね、っていうだけのことです。もちろん、別に当事者うんぬんじゃなくて、誰とでも仲良い方が一般的に良いに決まってますが、それは別の話です。
まあこういう業界でこういう稼業でメシ食ってるといろんなことがあるもんで、当たり前ですが当事者のなかにもいろんな人がいて、みんな善意の被害者の聖人君子ばっかりじゃないですし、逆にいえば研究者のなかにも立派な人はごくわずかですがいることはいます。








