さようなら

みんなが雨宮まみさんの文章で救われました。

救われる、ということは、どういうことでしょうか。誰が、何から救われるのでしょうか。

私たち読者は、雨宮さんの文章を読むことで、自分自身から救われるのかもしません。自分の憎悪や不安や恐怖から解放されるんです。

そういう負の感情を解毒する力を持った文章だったと思います。あなたは悪くない、ということと、でも正面から努力することも必要、ということを、誰も傷つけない形で書くことはほんとうに難しいことです。しかしそれをやってのける力を持ったひとでした。

みんなが雨宮さんのいろんな文章で、ネガティブな感情から解放される経験をしました。そうやって私たちは雨宮さんに頼ってきました。でももう、この世界からいなくなってしまいました。私たちのそういう感情の爆発を押しとどめてくれるような文章を書ける書き手がひとり、いなくなってしまったのです。

ついこのあいだの、『早稲田文学』の「新入生にすすめる本」という特集で1冊おすすめしてくださいと言われ、雨宮さんの『女子をこじらせて』を選びました。この本がいかに素晴らしい本かを述べた、その短い文章の最後に、私はこう書いたのです。

「私たちには、雨宮まみがいる。」

もちろん、本を開けばそこにいつも雨宮さんがいて、私たちはいつでも会うことができます。でももうその本は、続きを書かれることはありません。

私たちはこの厳しい時代に、雨宮まみがいないまま、生きていかなければならないのです。

     *  *  *

私が対談で浮気を否定したとき、雨宮さんが冗談で私に、浮気したほうがいいですよと何度も言うから、何でやねんと言ったら、作品に深みが出ますよ! って言ったから思わず笑いながら、作品が浅くて悪かったな! と言いました。

ほんとうに、キツい冗談をあっさりと上手に言えるひとでした。

     *  *  *

宝塚と女子プロレスが好きなひとでしたが、インスタやFacebookを見ていると、ほんとうに宝塚の舞台のような、キラキラした美しいものに囲まれた写真がたくさん載っています。

(これ、今でも見れますし、これからもずっとネットで見ることができるんですね。不思議です。そのうちふっと更新されるんじゃないかと思ってしまいます。)

宝塚と女子プロの共通点って何かなと思います。それはもしかしたら、女が、女であるままで、強くてかっこいいところ、なのかもしれません。

もちろん、雨宮さんの毎日の生活は、普通に地味なものだっただろうけど(知らないけど)、それでも雨宮さんにとっては東京は、劇場であり、またリングでもあったのでしょう。

雨宮さんは東京そのものでした。私は、雨宮さんとの対談集『愛と欲望の雑談』のコラムで、最初に雨宮さんと阪急電車の梅田駅で待ち合わせしたとき、遠くのほうからまるで「東京が歩いてくる」ように見えた、と書きました。

私の友だちには、東京そのものっていうひとが何人かいて、雨宮さんはそのひとりで、特にその代表みたいなひとで、だから私にとっては東京は、雨宮さんが生きている街でした。でも、もうこの東京には雨宮さんはいません。何か、東京の魅力がずいぶん減ったような気がします。

     *  *  *

女子プロレスがそんなに好きなら、書いたらええやん、と言うと、もっと詳しいひと多いし、だいたい読者がすごく少ないよ! 友だちに女子プロの魅力を熱弁するんだけど、そのときの反応がいつもすっごい薄いのー、と笑っていました。

でもたぶん、女子が堂々と、真面目に、何にも左右されずに自分らしく生きる物語として女子プロレスを書いてくれていたら、女子プロのファンも激増してブームになってたんじゃないかと、ほんとうに真剣に思っています。

     *  *  *

八重洲ブックセンターでの対談が、雨宮さんに会った最後になりましたが、そのときに以前よりもめちゃめちゃ痩せてたので、実はとても心配していました。実際に、体の調子も悪かったみたいですね。

体に気をつけてとか、なにかひとこと声をかけたらよかったのかなと思います。たぶん、雨宮さんに少しでも関わりのあるひとは、全員同じことを思ってるでしょう。

間に合わなかった一言があって、でも、間に合った一言もたくさんあると信じたいです。ちょうどいいタイミングでかけられるちょうどいい一言が、実は、自分たちも気づいてないだけで、この世界にはあふれてるんじゃないでしょうか。それが間に合ってくれたおかげで、私たちはその存在に気づかないだけなんです。ほんとうはそういう一言がたくさんあって、それで私たちは何とかやっていけているのだろうと思います。

自分たちでも気づかない、そういうことがたくさんあって、この世界が成り立っている。そう信じたい。

でもたまに、ほんとうに間に合わないことがあります。

     *  *  *

雨宮さんがいなくなってしまったことを、純粋に悲しもうと思います。断固たる決意で、堂々と、正面から、誠実に、真面目に、悲しもうと。そう、雨宮さんの文章のように。いつも真面目で誠実な文章を書くひとでした。だから、せめて読者のひとりとして、あの文章がもう二度と読めなくなってしまったことを、真面目に悲しみたいと思います。

怒りとか、悔しさとか、そういうのもありますが、でももうしかたがないです。私たちにできるのは、悲しむことぐらいです。

みんな、もっと泣いていいんですよ。目がパンパンに腫れて、同僚や家族や友人から笑われるぐらい、泣きましょう。これは、他ならない、私たち自身の悲しみです。

私たちには、泣くことが必要なんです。いまはただ、背中を丸めて、拳を握って、顔をくしゃくしゃにして、鼻をすすって、ぼろぼろ泣きましょう。いくらでも泣いていいと思います。

いろんなことがあって、いろんな感情がたくさん湧いてくるのは、別に恥ずかしいことじゃないし、悪いことでもない。私は雨宮さんの文章から、そのことを学びました。

あと何日か、いや何週間でも何年でも、思い出すたびに泣こうと思っています。それがたとえひとまえでも。別におっさんがひとまえで泣いてても、キモいとか、恥ずかしいなんてことはないです。たぶん雨宮さんなら、そう言ってくれるんじゃないでしょうか。

たぶん雨宮さんなら、そういうときは泣いていいんですよ! もっと泣きましょう! と、言ってくれるはずです。

変な話ですが、雨宮さんがいなくなったことを、雨宮さんに相談したいと思ってしまいます。あの美しい人生相談の本を書いた雨宮さんなら、どんなお茶を出してくれるだろうか、どんな言葉をくれるだろうかと思います。

雨宮さんがいなくなってどれだけみんなつらい思いをしているかを、雨宮さんに相談して、雨宮さんに一緒に泣いてほしいです。

そしてそれを一冊の本にしてほしい。出版されたら、お祝い会をみんなでしましょう。

いまはただ、純粋に、しっかりと、真面目に悲しみたいと思います。

     *  *  *

雨宮さん、毎日エゴサーチしてるんですか? 俺も一日に三回ぐらいするよと言ったら、「少ねえ…」と言われました。

雨宮さん、お葬式の日、『女子をこじらせて』が、Amazon全体で二桁まで行ってましたよ。俺が見たときは50位ぐらいに入ってました。

Twitterはもう、悲鳴ばかり並んでます。みんな、受け入れられないんです。「自分の寿命を削って雨宮さんにあげたい」っていうひとまでいましたよ。

     *  *  *

亡くなった次の日に何人かの方から連絡をいただいて、17日のお別れ会に参加してきました。近親者だけ、ということでしたが、5、60人の方が集まっていて、ほんとうにみんなから愛されていたんだなと思いました。

みんなもう、めちゃくちゃ泣いてました。あんなに参列者が泣くお葬式って、初めて見ました。お棺のなかの雨宮さんを見てみんな、その場で固まったまま、わんわん泣いてました。

そのあと雨宮さんは灰になりました。

あのお別れ会の場にいたひとたちも、その場にいなかったひとたちも、いちども会ったこともないひとたちもみんな、「自分にとっての雨宮まみ」を持っていると思います。雨宮さんとの思い出とか、会話の記憶とか、つらいときにその文章を読んで救われた経験とか、そういうものをみんな持っているんです。

どうしてかわからないですが、雨宮さんと話すと、なんか「話を聞いてもらえてる」っていう感じがするんです。雨宮さんだけじゃなくて、たまにそういうひとはいますが、雨宮さんは特に、そういう、「聞く力」を持ったひとだったと思います。その力は、実際に会話しなくても、その文章を読むだけで感じることができます。

だからこんなに雨宮ファンが多いんだと思います。

たぶん、みんな同じことを感じてると思いますが、雨宮さんの文章を読んでるときって、ひとが書いてることを読んでいる、というよりも、「自分の話を雨宮さんに聞いてもらってる」っていう感じがするんです。

これはほんとうに、不思議なことです。ひとの文章を読んでるのに、自分の話を聞いてもらってるような気がするんです。

自分のことが書いてある本。それを読むだけで、信頼できるひとにちゃんと話を聞いてもらえてるような気になる本。それが雨宮さんの本でした。

だからみんな、一度でも雨宮さんに会ったり、その文章を読んだりしたら、雨宮さんのことが好きになるんです。

     *  *  *

私がいちばん好きな雨宮さんの写真です。こんなに子どもみたいな、かわいらしい笑顔は、これまでのインスタやFacebookのほかの写真では見たことなかったので、びっくりしました。でもこれ、ほんとに直前の写真なんですね。

https://www.instagram.com/p/BMooTn6gJBm/

対談のときに、いままでもらってうれしかったプレゼントの話してて、バラの花束100本もらったときはうれしかった、と言っていたので、お別れ会のときに新宿のマルイの、青山フラワーマーケットで、小さなバラを5本だけ買いました。あの対談のときに、じゃあいつか俺も100本のバラの花束贈りますわと約束したのに、少なくてすみません。あと95本は、そのうち分割で配送します。

img_9804

しかしほんとに、亡くなったというよりも、「生きていた」んだなと強く思います。あんなに本気で自分の人生を生きていたひとはいないと思います。自分はどれくらい本気で生きているだろうかと思います。

お別れ会のあとご自宅にお邪魔して、形見分けの品をいただいてきました。

img_9840

氷砂糖みたいなやつは、たぶん何かの結晶とか何かそういう石です。意外なほどパワーストーンみたいな石がたくさん置いてありました。仲の良いお友だちのみなさんと一緒にお邪魔したのですが、みんな「まみって意外にスピリチュアルなんだよね」「スピッてるよねー」と笑ってました。

小さくてキラキラしててきれいで雨宮さんっぽかったので、無理をいってひとついただいてきました。

『東京を生きる』は、もちろんもう2冊ぐらい持ってますが、あらためて雨宮さんの本棚から連れて帰りました。

これが雨宮さんの本でいちばん好きです。女子ネタからなにかひとつ突き抜けた、大人の人生を書くことに挑戦した本です。作家として、ひとつの大きな壁を乗り越えた、記念碑的な作品です。ほんとうに、仕事の絶頂期に、ほんとにちょうどこれからというところでいなくなってしまったんだなと思います。

ちょっと個人的なことを書きますが(ぜんぶ個人的な話ですが)、2年ぐらい前にある出版社から「大阪について書いてください」という依頼を受けて、勢いで三日ぐらいで4万字ぐらい書いて、そこでストップして続きが書けなくなってしまった原稿がありました。

それからだいぶ経ってから、こないだその草稿を無理をいって雨宮さんに読んでもらったら、ものすごく褒めてもらって、これすばらしいです、何度も泣きました、これ絶対に出版してくださいねって言われました。じゃあもし出版できたら、帯の推薦文を書いてくださいとお願いしました。

雨宮さんは、そのときには、私の『東京を生きる』と合わせて、東京と大阪でブックフェアやりましょうって約束してくれました。

     *  *  *

バラの花束や東京と大阪のブックフェアの他にも「文化互助会」(お互いに自分の好きな本とCDを相手に無理やり買わせて、売り上げに貢献する)とか、いろいろ果たせなかった約束があります。

     *  *  *

雨宮さん、さようなら。また会いましょう。


両手を濡らす

前から不思議だったんですが、片手だけ濡らしてタオルで拭くとものすごく気持ち悪い。濡れてないほうの手をわざわざ濡らして、両手がともに水で濡れてる状態にしてから、両手でタオルで拭いたりする。なぜかわからないけど、片手だけ水に濡れてる状態って、意外に気持ち悪い。俺だけか。

自宅でも出張先のホテルでも、裸足のときはスリッパなんか要らない。ホテルの部屋に土足で入って、靴と靴下を脱いで、そのまま同じ床で裸足で過ごしてもぜんぜん平気だ。でも、秋冬の寒いときに、靴下をはいた状態だと、部屋用のスリッパをはかないと気持ち悪い。なぜかはまったくわからない。これも俺だけだろうか。

ということを書いていると、身近なあるあるネタのブログだと思われてしまう。

だから、大きなことも書こう。宇宙ってホログラフなんだってね。こないだ発見されたんだって。

すごいなあ。


包まれる眼鏡

ふと思い立ってメガネを新調した。もう10年以上、あるいは20年近くにもなるだろうか、同じものをかけ続けていて、フレームもボロボロだったし、だいたい度が合わなくなっていた。

せっかくやしめったにないことだしちょっと張り込んで、グランフロントの金子眼鏡に入った。

いろいろ丁寧に視力を測ってくれた。結論としては、右目が近視+遠視で、左目が近視+乱視で、その乱視が相当度が進んでいて、これでは見づらいでしょう、ということだった。

左右の度があまりにも違うので、「外では右目、仕事で近いところを見るときは左目」になっていた。利き目は左目である。右目を使うのがしんどくて、仕事用の眼鏡(老眼鏡じゃないよ!単なる度のゆるい近視用の眼鏡だよ!!←必死)を外でもずっとかけていて、左目ばっかり使っていた。

で、昨日、その眼鏡ができあがったので、店まで取りにいった。その場でかけてみた。

世界、めっちゃ立体やな(笑)。世界の3D感が半端じゃない。まるで3D眼鏡をかけて3D映画を見ているようである。眼鏡をかけて世界を見ているだけなんだけど。

両目を使うと世界が立体に見えることを学んだ。

で、最後に、じゃあ新しい眼鏡をかけられたまま帰りますか、はいそうします、っていうことになった。

店員さんは、俺がそれまでかけていたボロボロの古い眼鏡を、ゆっくりと丁寧に、汚れをきれいに落としたあと、新しい眼鏡を入れるはずの新しいケースに入れ、それを何かふわふわの白い薄い紙で包み、きれいなシールでとめたあと、高級感あふれる木の箱にうやうやしく入れ、立派な紙袋に入れた。そして、雨だったので、その上からさらに雨よけのビニール袋に包んだ。

本来そこに包まれるはずの眼鏡をかけて、古いボロボロのほうの眼鏡が立派に包装されていくのを最初から最後までじっと見ていた。店員さんが黙って静かにゆっくり作業していくのを、俺も黙ってみていた。

まあ、そうするよな。そうなるよね当然。


追記。このエントリをfacebookでリンクしたら、さいとうなおこ先生が「埋葬感ある」とコメント。 そ れ だ


お好み焼きは主食かおかずか

もうそろそろ、大阪の人ってお好み焼きとご飯を一緒に食べるんでしょ? それって炭水化物と炭水化物だよねーという、ほんとうにくだらない、ありきたりなネタについて最終的な回答を与えておきたい。今後、またこのネタを引っ張り出したひとがいた場合には、どうかこう言ってあげていただきたい。

お好み焼きは炭水化物ではない。それは、刻みキャベツと肉と卵を少量の水溶き小麦粉や長芋をつなぎとして焼いたものに、ソース・マヨネーズ・青海苔・鰹節をまぶしたものだ。

もっと簡単に言えば、お好み焼きとは、肉と野菜と卵を焼いて固めたものなのである。

したがって、ご飯のおかずとしておかしくない、どころか、これ以上ご飯がすすむおかずはないといってもよい。ご飯にぴったりのおかずである。

関西以外でお好み焼きと称する何かを食べると、いつも重くて湿ったブヨブヨの何かがでてきて驚く。水溶き小麦粉の生地が多すぎるのである。あきらかに、「何かの具をちょっと混ぜて、小麦粉を焼いて食う」というイメージで作っている。

違う。違うのだ。

わかりやすい画像を探したのだが、ちょうどよいものが少ない。しかしこれなんかは、ひとつのヒントを与えてくれる。1946年に大阪の玉出で創業し、現在は国内だけでなく世界に広がる一大お好み焼きコンツェルンをつくりあげた「ぼてぢゅう」グループのウェブサイトのトップに置いてある短い動画である。

http://www.botejyu.co.jp/index1.html

思ったよりも生地が少なく、お好み焼きの主体はあくまでもキャベツ・肉・卵であることが、この数秒のフラッシュ動画からもうかがい知ることができるだろう。

今後は、お好み焼きは立派なおかずであるということを認識していただきたい。

まあでも焼きそばでご飯食べるときもあるけど。それは炭水化物に炭水化物やなあ……。


スナック「プロファイラー」の夜

たまにスナックに行く。

一見さんでふらっと入るとだいたい、「お客さんお仕事何ですか?」と聞かれる。

そういうときはやっぱりスナックっぽい返しをしないといけない。うざいおっさんキャラで、「何に見えるぅ?」とか聞き返す。

話は変わるが、こないだ若作りしてDr.マーチンの靴を買った。形はマーチンっぽいが夏なのでキャンバスの素材のやつを買った。色は黒。

黒いキャンバス地の靴で大学で授業をしていると、チョークの粉がめっちゃ付いて取れない。しかたないので、白い染みがついたまま履いている。

スナックで。

ママ「お客さん、お仕事何してる方なの?」

おれ「何してるように見える~?」

ママ「えーと、そうですね………その靴の白い染みは……チョークの粉だな? ということは学校の教員だな。そしてそのラフな服装と無精髭……中学や高校ではないな……わかったぞ! 貴様、大学の教員だな!!」

みたいなことになるかもしれんなと思って履いている。


ゴッホは絵がうまい

ふっと思い出したんだけど、もう20年以上も前だけど、大阪のどこかの美術館に「大ゴッホ展」みたいなのが来た。どこの美術館でもそうだと思うけど、こういう「大シャガール展」とか「大ピカソ展」とかって、めちゃめちゃ集客する。

そのときもその美術館は超満員だった。私はもうゴッホ見に来たんだか人見にきたんだかわからんようになって、もうざあっと眺めてはよ帰ろうと思ってたら、会場にぎゅうぎゅうになってる大阪のおばちゃんの集団が、大声で喋りながらゴッホの絵を見てた。おばちゃんたちは口々に、

「ゴッホ、絵うまいな。さすがやな!」

「ほんまに上手やなーゴッホ」

と言いながら見てた。

なんか知らんけどめっちゃ思い出す。ゴッホは絵がうまい。なんか知らんけどものすごい大事なことに思える。そうだよな、そういうもんだよな。アートとか芸術とかっていっても。みんなそんなもんだよな。


スポーツって何ですか

なんかスポーツができる人間だったら、もうちょっといまとは違う人生だったかな、と思う。

スポーツ何もかもできないし、できないだけじゃなくて、見てても何やってるかわかんない。バスケもサッカーも、ひととボールがランダムにあっちいったりこっちいったりしてるようにしか見えない。ボクシングとかのすごい試合をyoutubeで見ても何やってるか理解できないし、マラソンの中継とかを長時間テレビで見続けられるのが信じられない。走ってるところみてどこが面白いのか理解できない。

これほど徹底的にスポーツができない、できないだけじゃなくて見ててもルールすら理解できない人間じゃなくて、もうちょっと人並みに体を動かすことができたら、もうちょっと違う人生だっただろうか。

とにかく普通に走ったり、ボール投げたりができない。特に球技がまったくできない。飛んできたボールを受け止めることもできない。20m走ると息が切れるのは、子どものときに喘息だったからだろうか(病院とかもいかないぐらい軽いものだったけど)。

体を動かして、その体を動かすということ自体が楽しい、と思ったことが一度もない。子どものころに、まわりに合わせてそういうゲームを一緒にやったりしたことは何回かあるけど、心から楽しんだことは一度もない。勝ったとか負けたとか、競う、ということの面白さも、あんまりわからない。

とくにわからないのが「ひいきのチームがいる」という状態で、たとえば全員大阪生まれの大阪人で構成されたチームが、全員京都生まれの京都人で構成されたチームにボロ勝ちする何かのゲームがあれば、そういうチームに感情移入することもわからないでもないが、チームの中身である個人が入れ替わっているのに、それでもそのチームを応援し続けるというロジックがわからない。

もっとわからないのが戦術とか作戦とかいうやつで、それはたまたま強い個人が多かったチームが勝つならまだ理解できるが、なにかの作戦とか戦術とかでゲームの行方が変わるということがまったくわからない。というか、そもそも、さきも書いたようにサッカーもバスケも、人がランダムに動いているだけのブラウン運動にしか見えない。だから、監督という存在の意義がわからない。たとえばプロ野球の話を聞いていて、あそこであの選手を出したのがまずかったとかよかったとかそういうことがよく言われるけれども、それがどういうことなのか理解できない。たまたまそういう結果になっただけじゃないですか。誰が何をやっても上手な個人が多いほうのチームが勝つんじゃないですか。

     *  *  *

ただ、いま体をまったく動かしていないかというとそうでもなくて、週に1度か2度は3時間ぐらい大阪の街をゆっくりと歩く。あと、若くてヒマなときは、沖縄の離島でひたすらたったひとりでシュノーケルをしていた。歩くのが好きなんじゃなくて大阪の知らない街並みを見るのが好きで、泳ぐのが好きなんじゃなくて(そもそも泳げない)、海に潜るときの、あの音や温度の変化や水圧の感じが好きで、もちろん何よりも沖縄の美しい青い海そのものが好きなので、ひとりでひたすら素潜りしていた。

実はボールを投げたり打ったり受け取ったりすることができないだけではなくて、ゆっくりふらふら飛んでいる蚊を叩くこともめったに成功しないので、なにか体と脳をつなぐ配線が、どこか何本か切れているんだろうと思う。

その配線がうまくいっていて、体の動きも統合できていたら、なにかもっと肯定的な、楽しみの多い人生だったかもしれないと思う。


毎日新聞コラム「ブックマーク」連載まとめと、ボツ原稿

というわけで、3ヶ月続いた『毎日新聞』でのコラムも無事に終了しました。たくさんの方に読んでいただいて、(一部で)ご好評をいただきました。みなさまありがとうございました!

読める記事数に制限があるみたいですが(笑)、いちおうまとめてURLを置いておきますので、またおヒマなときにでもお読みください。

この連載、じつは全13回分を、2日ぐらいで書き上げました。とても楽しかったのですが、そのなかで、「これだけたくさん書くんだから、ひとつぐらいわがまま言わせてもらおう」と思って書いたものがあります。そしてそれは、みごとにボツになりました。

記念に、このページのいちばん下に置いておきますので、よければお読みください。たんにdisってるだけの文章で、自分でも「そりゃーボツだわな……」と思います。

新聞紙上で連載するのは初めてでしたが、反響も大きく、楽しいお仕事でした。また機会があればどこかでぜひ続きを書きたいと思います。

2016年04月04日
まぶしかった沖縄
http://mainichi.jp/articles/20160404/dde/018/070/061000c

2016年04月11日
人生を肴に飲む酒は
http://mainichi.jp/articles/20160411/dde/018/070/011000c

2016年04月18日
沖縄の「いい暮らし」
http://mainichi.jp/articles/20160418/dde/018/070/058000c

2016年04月25日
偶然の出会い
http://mainichi.jp/articles/20160425/dde/018/070/007000c

2016年05月02日
雰囲気デフレ効果
http://mainichi.jp/articles/20160502/dde/018/070/026000c

2016年05月09日
そうやなくて…
http://mainichi.jp/articles/20160509/dde/018/070/021000c

2016年05月16日
小さな達成感
http://mainichi.jp/articles/20160516/dde/018/070/049000c

2016年05月23日
誰もが組織嫌いだが
http://mainichi.jp/articles/20160523/dde/018/070/025000c

2016年05月30日
思いきって声を
http://mainichi.jp/articles/20160530/dde/018/070/019000c

2016年06月06日
「個人」はかっこいい
http://mainichi.jp/articles/20160606/dde/018/070/017000c

2016年06月13日
人のおらんとこで…
http://mainichi.jp/articles/20160613/dde/018/070/031000c

2016年06月20日
「できない」は見えにくい
http://mainichi.jp/articles/20160620/dde/018/070/018000c

2016年6月27日
愛されたくめんどうな俺
http://mainichi.jp/articles/20160627/dde/018/070/014000c


ボツ原稿(タイトル未定)

 すみません、これはお叱りを受けるかもしれませんが、思い切って言います。バーや居酒屋を含む全ての飲食店を、禁煙にしていただけないでしょうか。

 おととい、昼ごはんのときに、たまたま通りがかった中華屋にふらっと入って席について、酢豚とかに玉の定食を食べてたんですが、となりのおっさんが食べ終わったあとタバコを吸いだした。

 ほんとうにもう、何といっていいかわからないですが、猛烈に臭いです。副流煙がとか、発がん性物質が、とかじゃなくて、純粋に臭い。ほんとうに臭い。世の中に臭いものはたくさんあるが(私もそうとう加齢臭な年齢になってきた)、タバコの臭さはまた格別というか、独特です。精神的にかなり堪えるものがある。

 煙を向こう側に吐くとか、そういう小手先の配慮ではどうしようもないですよ。分煙とかも意味ないです。とにかくどこかでだれかが吸いだしたらすぐにわかります。ほんのちょっとでも猛烈に臭い。

 ときどき台湾や香港に行きますが、もうどこでも店内はすべて禁煙ですよ。いろんな国ですでにそうなってきています。なんで日本でできないんですか。政府は何をやってるんですか。別に一生吸うなとは言いませんよ。ただちょっと、吸いたくなったらお店の外で吸ってくれたらそれでいいんです。

 特に私は酒が好きなので非常に困ります。お酒を飲む店はだいたい喫煙可なんです。あとなぜか中華屋さんも喫煙可のところ多いですね。私は中華も特に大好きなので、つくづく困ります。最近はもう、バーでも居酒屋でも、喫煙の店には入らなくなりました。それで客を逃してる店も多いと思う。

 この場をお借りして、心の叫びを書かせていただきました。お気を悪くされた方がいたらごめんなさい。でもいつもほんとうに臭い思いをしてるんです。あと髪の毛や服にもいつまでも残るしね! ウールの上着に匂いついたら取れないですよ!


がんばれ山口さん

さっき職場から帰る電車のホームで、ひとりのスーツ姿の男性がケータイで、仕事の話をしてたんだけど、そのうちかなり強い口調で、こう言った。

「そこを受け入れるか突っぱねるかは山口さん次第です。」

ふと顔をみると、いまどきのツーブロックのカリアゲの、若いイケメンだった。なんとなく切なく、悲しくなった。

あのな。ちょっと、山口さんがなんでそこで立ち止まってしもたか、なんで山口さんがそこで悩んでしもたんか、考えてやれよ。

山口さんはな、簡単に選ばれへんねん。受け入れるか突っぱねるか。それが選べないのが山口さんだし、山口さんのポジションは、そんなにほいほいどっちか決められへんようなところにあるやんか。

理屈で言うたらそらキミのほうが正しいよ。だって仕事は仕事だもん。ほんまにそうやで。そこどっちか決めへんかったらな、しょうがないやんか。みんなそうやって、難しい選択肢のなかからどれかを選んでるんやから。

いや、それはわかるねん。ようわかってるねん。でもな、組織ってそういうもんとちゃうやん。

いや、確かに俺はな、会社に雇われたことないで。でもな、大学のせんせーいうてもサラリーマンと一緒やからな。わかるねん。組織はそんなもんとちゃう。

そこでな、理詰めで追い込んだら、山口さんどう思う? 山口さんのモチベーション、どないなる? それがひいては、組織全体の士気みたいなもんにつながってくるんやで。

ときには山口さんの言い分も聞いたげるのが、大人ってもんやで。

がんばれ山口さん。受け入れるか突っぱねるか。ほんまに難しいやろけど、でも俺は山口さんを信じてるで。がんばれよ、山口さん。

誰か知らんけど。


大事だけど、そのすべてではない

社会学者や評論家や作家で、ふだんリベラルなことを言うのに、性的な領域に関する話題になるととたんに「ロマンティシズム全開」になるおっさんがいる。

ふだんは個人主義的で合理主義的なことを発言するのに、「性」、あるいは「女」についてのことになると、とたんに「ただのおっさん」になる。

たとえば、労働市場における女性の不利な扱われ方についての議論をしているときに、こういうおっさんはよく、「女性を『男性なみ』にすることは、女性が本来持っている役割を否定することにつながる。悪しき平等主義だ!」とかいうことを言う。

古典的といえば古典的だが、いまだにこういうことを言うおっさんはとても多い。

最近笑ったのが、これ。

島地勝彦の「遊戯三昧」 「絆す」の読み方、わかりますか? 2人の伝説的編集者が明かす人間関係の奥義──第13回ゲスト:松岡正剛さん(後編)
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/48534?page=3 (3ページめ)

島地 そう、プールに行ったら必ず、250メートルは後ろ歩きします。

松岡 なんだ、案外、健康に気を使ってるんじゃないですか。

島地 健康というより、鍛錬です。シングルモルト、葉巻、肉、女。人生を充足させる4つの要素を楽しむための鍛錬とお考えください。

人生を充足させる4つの要素が「シングルモルト、葉巻、肉、女」であることにも笑ったが、そのためにしていることが「プールで後ろ歩き」である。おっさんというより完全におじいちゃんだ。段差に気をつけてね。

性的なもの、あるいは女性そのものに対するこうした「男のロマン」(笑)には、逆に、性的なものなしでは自分自身さえ保てないような、おっさんの過剰な思い入れが感じられる。

いつも思い出すことがある。

高校のときに、生物の先生が授業中、生殖の話をしてて、男子校だったこともあり教室がけっこうザワザワしたのだが、そのときにその先生が、いつも温厚な先生だったがそのときも穏やかに、語りかけるように、おまえらな、若いからしょうがないけどな。たしかに、性的なものは、大事なことだよ。だけど、人生にとって、性的なことなんて、ごく一部でしかないんだよ。それは大事なことで、おろそかにしちゃダメなことだけど、でもそれは、人生のぜんぶじゃないんだよ。

って言ったのが、ふだん授業なんてぜんぜん聞いたこともなくて、そもそも高校のときから授業なんかサボりまくってたけど、それでもなんか妙にそのとき感動して、だからいつまでも覚えてる。

とても大事な人生の一部だけど、でもそのすべてではない。

いまだによくわからないけど、なんか妙に、その一言を、ずっと覚えている。