沖縄社会学会・第2回研究大会のお知らせです。
沖縄社会学会第2回研究大会
日時 2019年10月27日(日)13時〜17時(報告30分、質疑20分、休憩10分)
場所 沖縄国際大学 5号館1階 5-107号室
https://www.okiu.ac.jp/campus_life/campusmap
予約不要・参加費不要
一般の方も歓迎です。
連絡先はこちら。岸政彦 / kisi あっとまーく sociologbook.net
第1報告
氏名:糸数温子(いとかず あつこ)
所属:一橋大学大学院・日本学術振興会特別研究員DC
報告タイトル:沖縄貧困対策事業にみる支援の新自由主義的な性格とその支持によってもたらされているもの
報告要約:
沖縄県の子どもの貧困率29.9%の衝撃的な数値発表を受けて、平成27年(2015年)12月、内閣府は平成28年度「沖縄子供の貧困緊急対策事業」に10億円を計上した。その結果、県内164箇所で「子どもの居場所」が設置され、貧困対策事業の要として位置づけられるようになった。
他方で、これまでの沖縄の子どもの低学力や、若者たちの不安定就労をめぐる諸問題は、それらの多くが家庭の経済力に大きく左右されている傾向があるということが明らかにされており、子どもの教育達成やそれを前提とした将来展望のスタート地点に格差・不平等がある、ということが戦後一貫した課題であった。経済的な「再分配」の議論として貧困対策が捉えられていたと言える。
そこで本報告では、現状の貧困対策事業がどのような性格のものであるのかを検討し、そのことが孕む問題点について考えてみたい。
第2報告
氏名:杉本 篤史(すぎもと あつぶみ)
所属:東京国際大学
報告タイトル:日本における言語権に関する学術・立法政策状況と琉球諸語をめぐる問題
報告要約:
言語権Linguistic Rightsという用語が提唱され、社会言語学を中心に学術用語として定着して半世紀以上になるが、人権問題を取り扱う学術領域(主として憲法学)では十分に浸透しているとは言いがたい。
他方で、2019年の春にはアイヌ新法や日本語教育推進法が制定され、手話言語法案の立法運動も粘り強く続けられていることから、日本でも言語権を念頭に置いた立法政策論が求められるようになった。これらの状況をふまえて、ユネスコにより危機言語と認定されながら、国の立法政策としては放置されてきた琉球諸語の言語権問題を検討し政策提言するためには、どのような課題を克服しなければならないのだろうか。
本発表ではまず言語権とはなにか、言語権をめぐる日本の学術的・立法政策的状況を整理したうえで、琉球諸語に関する言語権問題をめぐる諸課題についてフロアと意見を交換したい。
第3報告
氏名:井上 史(いのうえ ふみ)
所属:ボストン・カレッジ歴史学研究科博士後期課程
報告タイトル:1955年米軍統治下沖縄の再考 治外法権への抵抗と人権擁護言説の交錯と接合
報告要約:
本報告は、1955年の米軍統治下沖縄において5歳の幼女が米陸軍軍曹によって強姦殺害された事件(通称「由美子ちゃん事件」)を契機に展開された超党派的抗議運動を題材に、反治外法権的人権擁護の言説がどのような政治的文脈において生起したのか検討を行う。
沖縄戦後、住民は米軍関係者による事件・事故に遭遇しても、米軍の例外的地位を前提としてつくられた法体系を前に、警察権を行使する権利、公正な裁判を受ける権利、加害者の法的処分を知る権利、行政的補償を受ける権利等を剥奪ないしは蔑ろにされていた。1955年9月に発生した「由美子ちゃん事件」は、米軍占領下はじめて民間団体や自治体組織のみならず琉球政府をも巻き込んで超党派的に治外法権に抗する契機を促し、米民政府には異例の対応を迫り、米国務省にも軍部主導の占領の限界を認識させるに至った。
この抗議運動において重要な位置を占めた人権をめぐる言説が、どのような過程を経て生まれ、広範にみられるようになったのか、米国政府(米国民政府・国務省)の公文書、アメリカ自由人権協会/日本自由人権協会の記録、新聞等の史料をもとに、先行研究では明らかにされていなかった事柄を確認しつつ、「由美子ちゃん事件」とその背景の再構築をはかりたい。
補足(被害者である幼女の年齢は、米軍法会議の裁判記録に依拠する。)
第4報告
氏名:末松 史(すえまつ ふみ)
所属:INALCO (フランス国立東洋言語文化研究所) 修士課程後期
報告タイトル:クブングァー─大阪市大正区に存在した戦後最大の「沖縄スラム」
報告要約:
現在、大阪市大正区は「リトルオキナワ」の呼び名で知られ、多種多様の沖縄関連の店舗、機関、イベントなどが存在する。年に2回、エイサー祭りも開催され、大正区行政も「沖縄」を大正区のプロモーション材料として積極的に活用している。大正区が「リトルオキナワ」「沖縄の街」として知られるようになったのは、2000年以降の話である。1900年代後半から安室奈美恵等の沖縄出身のポップスターたちの人気から若者を中心に沖縄ブームが始まった。2000年7月には、第26回主要国会議、通称沖縄サミットが那覇で行われ、メディアだけではなく政治的にも沖縄が注目されていた。
しかし、2000年よりずっと以前から大正区は沖縄出身者が多く暮らす「沖縄の街」として知られていた。大正区には1930年頃から沖縄出身者集住地区が形成されていたのである。しかも現在のようなポップなイメージとは異なり、1950年から1970年代後半まで「沖縄スラム」「沖縄バラック」と呼ばれる現象が存在していた。沖縄出身者が多く暮らす不良住宅地区は、クブングァー(沖縄方言で「窪地」を意味する)と呼ばれていた。その名前の通り1950年ジェーン台風の被害で水浸しになり、放置された公共の土地に、沖縄からの出稼ぎ労働者やその家族が不法占拠をして作られたバラック街がクブングァーである。クブングァーに関する研究は非常に少ない。文字資料として残されず消えていこうとしているクブングァーのこと記録に残すことがこの研究の主な目的である。
この発表では、クブングァーが形成され、そして消えた歴史的背景を、沖縄そして大阪の両面から捉えて分析していく。当時の時代背景を理解することで、クブングァーとはどういう存在だったのかを説明しようと試みである。