確率とともに生きる

新型コロナウィルス、というものが流行っていて、この春はすべてのイベントが中止や延期になり、公的な施設には閉鎖されるところもでてきて、学校も全国で一斉に休校にするかどうかという話があり、そのわりには朝の満員電車はあいかわらずで、それからやっぱりデマもとびかっている。

ドラッグストアやコンビニの店頭からマスクが消え去り、さらにトイレットペーパーがマスクと同じ材料で、もう中国から入ってこなくなるので売り切れるだろうというデマがひろがって、トイレットペーパーも店頭からなくなった。コストコに長蛇の列ができたとか、対応していたドラッグストアの店長が鬱になったとか、そういう記事をたくさん読んだ。

いったい誰がどういう意図で流すのか知らないけど、30度ぐらいのぬるま湯を飲むと熱に弱いコロナが死ぬ、というデマもかなり広がって、さすがにこれは笑った。体温より低いやん。

まあ、しかし笑えない。若年者の致死率は低いから学校を休みにするのはデメリットのほうがでかいとか、通常のインフルエンザの対策で十分とか、おおぜいがいっせいにイベントや歓送迎会を自粛することの経済的なダメージをどうするとか、そういうことをみんなが言って、そしてそれはすべてその通りなんだけど、でも私たちや、私たちの家族の人生は一度きりしかない。

この、それぞれの個人の人生が一度きりしかない、という根源的な事実によって、私たちはデマに抗うことが難しくなっている。

マクロなレベルでは、新型ウィルスに罹患して死ぬひとの数は、ごくわずかかもしれない。だけど、じゃあ、それがお前だったらどうする?

社会全体のなかではわずかな確率でしかないものが、それに当たったときには、私たちは私たちの人生のすべてを差し出さなければならない。

この、全体的な確率と、個人的な人生との、極端な非対称性のことを、いつも考えている。沖縄戦では、大勢の一般市民が犠牲になった。生き残った方がいま、私にその物語を語っている。ほんのわずかの確率のずれで、その場で亡くなるひとと、そのあと生き残って子や孫を大勢育ててきたひととの差が生まれる。亡くなった方と生き残った方を明確に区別するような理由も原因もない。そこには意味すらない。沖縄戦の生活史の物語は、「それは私でもよかったはずだ」の連続である。

たとえば、致死率がわずか0.1%の、弱いウィルスの感染が、いま広がっているとしよう。感染したひと千人のうちひとりしか死なない。そしてあなたも、あなたの家族も、まだ誰も感染すらしていない。そこに、「このウィルスは大豆にふくまれるタンパク質に弱く、豆腐を大量に食べると致死率が半分に減る」という噂が流れる。もともとわずかしかない致死率が、ただ半分に減るだけで、しかも出どころも根拠も怪しい話だ。

でも、たとえば自分に子どもがいたら、スーパーで豆腐を買わずにいられるかどうかを考える。買ってしまうのではないか。

「1万人にひとり」「10万人にひとり」「1億人にひとり」……でも、ひとりはひとりだ。そして私たちはすべて例外なく、「ひとり」としての人生を生きている。9999人が生き残ったとしても、「私」が死ねば、それは世界のすべてがなくなってしまうことを意味している。あるいは、私の家族。犬や猫。

逆の場合もある。確率のもとで死ぬこととは逆に、確率のもとで生まれること。

不妊治療に5年以上の時間と、数百万円の金を無駄に費やした。最後には、特に連れあいのほうは、毎月、排卵のタイミングに合わせておこなわれる治療で、心身ともにぼろぼろになった。私も全身麻酔の手術を2回おこなった(私は重度の無精子症だ)。

でも、「次の1回」の可能性がゼロでないかぎり、なかなか止めることができなかった。可能性が0.1%でも、もしそれを射止めることができたなら、そのときは「すべて」を得ることができる。もちろんこのすべてという表現は大げさなものだが、それでもその治療をしている最中はそれがすべてだった。だから、なかなか止めることができなかった。

「次の1回は……」という確率がいかに低くても、それですべてを得られるなら、私たちは、そしてあなたたちも、何度でも次の1回に賭けてしまうだろう。

不妊治療をしてみて強く思ったのは、この「業界」に、いかにスピリチュアルなニセ医学や怪しげなホーリスティック治療や悪質な詐欺がまかり通っているか、ということだった。「柘榴の絵を玄関に飾ると子宝に恵まれる」(種が多いからだろうか)というたわいもないものもあったが、悪質なものも含めて、それに騙される人びとのことを、私は笑えない。いや、まあ、よっぽどのときは笑うけど(「お湯でウィルスが死ぬ」とかね)、でも、すくなくとも全否定する気にはならない。いや、否定せなあかんねんけども。

私たちは、確率というものと共に生きていけるほど、賢くはないのだ、と思う。まだ人類はそこまで進化していない。自分たちや、愛する家族がもしウィルスに感染して死んでしまったら、それは私たちにとっては、すべてを失うことと同じである。

確率がいかに低いか、ということを合理的に教えられても、私たちは、それが私たちのすべてを奪い去るものであるかぎり、それで納得はしないだろう。

私たちは、確率の数字では「癒されない」のだ。

だから、私たちが確率の低さに納得しないということは、それはそれで、広い意味で合理的なことなのかもしれない。

だからたぶん、デマを封じ込めることは、ウィルスを封じ込めるのと同じぐらい難しいんだろうと思う。

でもデマはダメだよ!!

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