蟻の人生

「例えば蟻が餌をはこんでいる。あなたは蟻を自由だと思うだろうか。蟻は、自由を享受している、と。答えはおそらく人によって分かれるだろう。……問い方を変えよう。蟻が餌をはこんでいる。それは、蟻の『行為』なのだろうか」
(野矢茂樹「序論」『自由と行為の哲学』春秋社、2010、1〜2頁)

私は哲学者ではないので、蟻に「意図」や「自由」があるかどうか、蟻がしていることは「行為」なのかどうか、ということについてはまったくわからないが、すくなくとも、蟻が餌を運んでいるところを見ると、ああ生きているんだな、と思う。

さらに、のんびり歩いている蟻をつつこうとして指を出すと、蟻は殺されまいと、必死になって逃げようとする。

普通に歩いているときよりもむしろこういうときの方が、より強烈に、ああこいつは生きているんだ、死にたくないと思ってるんだな、と思う。死にたくないように見えているだけか、ほんとうに死にたくないと「思って」いるのかはわからないが、とても強く、私も蟻も、何て言うか、同じ種類の存在なんだなと思う。

蟻が自由にのんびりと歩いているときよりも、死にたくないと思って必死に逃げようとしているときのほうが、生きているということを強く感じる。しかし、本人にしてみれば、どちらかというと生きていると感じるのは自由に歩いているときであって、必死に逃げているときではないと思う。必死に逃げているときは、ただ単に必死に逃げているのであって、そのつどのんびりと自由に「右に逃げようか、左に走ろうか」と考えているわけではないのに、必死になっているほうが生きている感じがする、というのも、奇妙な話だ。

選択の余地がない状態で、とにかく生きのびる道を必死で探しているもののほうに、より感情移入する。そちらのほうに人生を感じる。