結婚とか夫婦とかの制度はたしかに面倒だし、個人の自由にとって抑圧的だから、ほんとうに、ないほうがいいとまでは言わないけど、できるだけそういうものを選ばない自由が保証され尊重されるべきだし、個人の自由な生き方がたくさんあったほうが、より良い世の中になる。
ただ、どうしてもある種の規範を持ち出してしまうときがある。たとえば、ふつうに結婚してて、でも仕事の都合とかで子どもをなかなかつくらない夫婦をみると、こちらから余計な口出しをすることはないけど、自分の体験から、やっぱりできるうちに作っておいたほうが、あとから欲しくなっても、と思ってしまう。
そういうときは、「夫婦であれば子どもがいたほうが幸せ」という規範に、無意識に自分も従ってしまっているんだろうか、と思う。
ほかにも、不倫している若い女の子の話をきくと、バカだなやめとけよ、って言ってしまうけど、でももしそれが、将来や現在のリスクをすべて理解したうえでの、そのひとなりの判断なら、それは尊重されなければならない。が、それでもやっぱり積極的に応援する気にはなれない。
そうすると、この、積極的に応援する気にならないという感情は、私が、「ひとはひとりの相手と結婚したほうが幸せになる」というような、近代的な規範に従っているということのあらわれなのだろうか、と思う。
どんな個人の選択も尊重されるべきだが、いろいろなひとからいろいろな話を聞いていると、うーん、と思うことがあり、そういうときに、おかしな言い方だが、社会というものに直に手を触れているような気がして、そのざらざらした手触りが伝わってくるような感じを受ける。そして、そういうとき、自分が急に、保守的な、つまらない人間になったような気がする。
どんな個人の自由な選択も尊重されるべきだが、しかしその選択はすべて、ひとしなみに同じ価値なのだろうか。もしほんとうに尊重されるべきなら、それらは同じ価値を持つものとして同じように扱われるべきだ。
しかしひとは、とくに自分のことではなく他人の相談を受けているときになると、とたんに保守的な、ふつうのやつになってしまうときがある。そういうときは、そういう話を語っているひとも、それを聞いている私もおなじように、自由な選択の迷路のなかに急に現れる壁にぶちあたって、動けなくなってしまっているのだと思う。
もし社会というものを視覚的に(あるいは触覚的に)表現するなら、こういう壁みたいなものになるのかもしれない。
感覚的に、私たちは、私たちの自由な意思だけではやっていけないと思うけど、でもそれを止めるときに、私たちはひどく保守的で封建的な、つまらないやつになってしまう。
ただ、それでもその壁を破って進むひとはたくさんいる。それが不幸なことなのか、それともそれなりに幸せなことなのかは、わからない。
以前リブロのトークショーで本にサインしていただいたときにお話しさせていただいたものです。八月に『断片的なものの社会学』を読書会で取り上げました。この「壁」が、先の本の「手のひらのスイッチ」と呼応する主題だったのでコメントしてみました。このざらざらごつごつ感は、世間というより、社会と呼ぶべきですね。また、時折立ち寄ります。
ありがとうございます! ここ、たまにしか見ないので、コメント承認が遅くなってすみませんでした。ちょこちょこ更新しますのでまた覗いてください!
興味深く読みました。
そう思います。そして、教員という立場で若い人に接する時、特に保守的になってしまうのを感じます。今は、そう決断しても将来後悔することになるのではないか?とつい思ってしまうのです。でもそれはその人の思考能力を見くびった思い上がりなのかもしれない、とも、思います。
私から見たその人にとっての幸せなんて、押し付けでしかないと思いつつも、「あなたの考える通りの、好きにしなさい」と告げるのが決してその人を想った言葉ではないように思ってしまいます。
(誤変換がありましたので再送しました)