以下は、2011年1月9日に奈良女子大でおこなわれたシンポジウム「社会運動で語ること/伝わること/繋がること」で私が話した内容をもとに書いて、シンポの報告書に掲載してもらった文章です。一部細かい間違いは直しましたが、だいたいそのままです。
このシンポジウムは、奈良女子大の鶴田幸恵さん、名古屋大学の渡辺克典さんたちが中心になって企画されたもので、それぞれ関西の有名な運動家(という言い方が正しいのかどうかいまだにわからないけど)の、土肥いつきさんと上野久美さんのお話を中心にして、それになにかコメントしてくださいということだったので、だいたい以下のようなお話を……するつもりが、土肥さんのトークに引きずられて結局あっちゃこっちゃ脱線し、自分自身のカミングアウトもおりまぜながら、何かようわからん話になっちゃったので、以下に文章をあげときます。
テーマは「関西らしい社会運動について語る」ということだったんですが、やっぱり大阪とか関西のひとは、深刻な問題に取り組む運動家でもトークに笑いを取り入れないと気がすまないひとばっかりなので、私の報告もこういうテーマになりました。
まあ、社会運動そのものを真面目に研究してるわけでもないんですが、毎日こういう業界でいろんなひとに接していくなかで、普段から漠然といろいろ思っていたんですが、そういうことを言葉に出してまとめる、よい機会をいただきました。鶴田幸恵さんには本当に感謝いたします。ありがとうございました。
会場に来ていただいた金明秀たん @han_org 、Bonくん @Bong_Lee にもお礼を申し上げます。飲まずに帰って悪かった。
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シンポジウム「社会運動で語ること/伝わること/繋がること」
2011.1.9 奈良女子大学
報告原稿
「笑いを擁護する」
0. はじめに
このシンポジウムでの私の役割は、土肥いつきさんと上野久美さんの語りを、社会運動という視点からとらえなおすことだった。もとより私は社会運動について専門的に研究してきたわけではないが、私なりに沖縄や部落でのささやかな「かかわり」を、調査や教育を通じてつくってきた。こうした「かかわり」のなかで、社会運動の歴史や現在について、私なりにいろいろ目にしてきたことがある。本稿では、土肥さんや上野さんの語りに耳を傾けながら、同時に私なりに「語り」と「かかわり」について述べてみたい。ここでは、さまざまなタイプの語りのなかでも、特に「笑い」について考える。
1. 語りと社会運動
日本で社会運動を研究することは困難である、といわれることがある。それも、専門的に調査研究しているひとたちからである。たしかに、ときおりロンドンやパリから、あるいは2011年2月現在でいえば中東から聞こえてくる、街角での大規模なデモのニュースと比べると、この国にはいわゆる「社会運動」にかかわる一般市民が、あまりにも少ないように思える。
この傾向は特に若者で顕著で、たとえば昨年、ロンドンとパリにおいて教育予算削減に反対する大規模なデモがおこなわれたが、ふりかえって日本の若者たちは、ネットやケータイの世界にひきこもって、なかなか路上に出てこない。いまや日本の学生たちの最大の関心事は、国の政策や社会問題ではなく、「シューカツ」と呼ばれる独特の通過儀礼である。
しかし、こうも考えられる。この国の30代から下の世代における恋愛や結婚が激減し、それにともなって子どもの数も急速に減っている。もしかしたらあと数十年とたたないうちに、私たちが知っているかたちでの「家族」はこの国からなくなって、単身世帯ばかりになってしまうかもしれない。この国をおおう閉塞感はあまりに重苦しいので、市民は路上に出るかわりに自分たちのワンルームマンションにとじこもり、じっと静かに、何かに耐えているようにみえる。外に出るかわりに内にこもる、ひきこもり社会、あるいは「リストカット社会」になっているのだろうか。
しかし、こうした状況においても、私はこれまで、各地にたくさんのネットワークや自助グループがあって、決して多くはないけれども、それでもいく人もの人びとが支え合っているのを見た。そこでは静かだが確かな交流が維持され、そこかしこで状況や自己が再定義され、知識が交換され、つながる喜びが再確認されている。たとえば、短期間ではあるが摂食障害の自助グループをお手伝いしたことがあるが、そこでは自らの「病い」についての観念が語られ、定義され、疑われ、揺さぶられ、そして再定義されていた。もし、「エタであることを誇りに思うときがきた」「Black is beautiful」といった、「自己の再定義」というものが社会運動のもっとも本質的な要素であるならば、これらの場は、確かにこの国の姿をうつしだす「静かな社会運動」であるといってよいだろう。
私はいちど、摂食障害の自助グループのスタッフに、これは社会運動ですね、と言ったことがある。そのときは私が言っていることはすぐには理解されなかったが(当たり前だが)、私との対話を重ねるなかで、やがて理解してもらえた、ということがあった。そのうち、そのグループの中では、摂食障害の当事者たちは医療や福祉の現場、あるいは家庭などで不愉快な経験をたくさんしていたのだが、そういう経験が「差別」というものだ、と、自らの状況が再定義されていった。
もちろん、語ることそれを聞くことがすべて社会運動であるとまで言うつもりはないが、それでもこの国にはこの国なりの社会運動があり、それぞれがそれぞれの持ち場で懸命に闘っているところを見てきたのである。
さて、このシンポジウムの目的のひとつは、「関西の社会運動を考える」ということであった。こうした括りには、どこかしら関西に対するオリエンタリズム的まなざしを感じないでもないが、たしかに土肥さんの「語り」には、独特の戦略がある。それはいうまでもなく「笑い」である。
2. 真面目と不真面目
この静かで陰鬱な国において、関西という地域は例外的なほどの社会運動の蓄積があるところである。部落解放運動、在日コリアンの民族運動、釜ヶ崎を中心とする労働運動など、これまで全国の運動をリードしてきた歴史がある。こうした蓄積はいまでも、たとえば大阪では、同和推進校だった高校が外国人の子どもを受け入れたり、部落のなかの識字学級がニューカマーの外国人労働者にとっての日本語教室になっていたりと、新しい問題に対処するための資源として機能している。あるいは、同和教育を中心的におこなってきた高校が、現在では「反貧困教育」を掲げて、この時代において要請される教育のあり方のひとつのモデルケースを提供してもいる。
これらの運動が強力に展開されるなかで、関西らしい「運動の語り」が醸成されてきた。
社会運動は個人の経験や定義を変更することなしにはありえない。むしろ、個人の経験や定義を変えることが社会運動である、ともいえる。したがって社会運動は個人的な感情、情動といったものに訴えかけるものでなければならない。少人数の自助グループから戦後の部落解放運動にいたるまで、すべてに共通していえることである。
ところで、個人的な情動に訴えるには、「涙」か「笑い」が手っ取り早く効果的である。したがって、関西の社会運動家は、そろってみな語りが、あるいは関西風にいえば「しゃべりが」得意である。このあたりの「動員のためのテクノロジー」の発達が、「関西っぽい」と言われる側面かもしれない。
さらに、ひとつの運動のなかで人びとをつなげる、あるいは運動と運動をつなげるためには、目標や「理論」を抽象化する必要がある。そうするともともとの当事者性と矛盾したり離れてしまうことになる。様々な問題領域で活動する人びとを幅広く結集するためには、「当事者性にある程度の制限を加えたうえで」集まる必要がある。つまり、「当事者性だけ」で集まることはもうできない。ここでますます、「ひとを集めるための技術」のようなものが問われることになる。たとえば、「人権」という概念がどのように使われてきたか。それは異なる世界のひとをつなげるために問題を抽象化する装置だった。アジェンダを抽象化する一方で、もっとも感情的で直接的なテクニックが問われるということが同時に起こる。抽象化と具体化が同時に進行するのである。そのときにはおそらく、笑いというものが重要な武器になるにちがいない。
ただ、こうした「技術」は、どこかで運動の当事者性や「しんどさ」や運動のそもそもの目標と矛盾することがある。たとえば、私は70年代の大阪の沖縄人運動や、現在の摂食障害の自助グループや大阪の被差別部落を調査してきたのだが、どんなかたちでもほとんどすべての社会運動で、「なにか楽しいイベント」や「楽しいトークができるひと」のところにひとが集まり、「真面目」なことをしようとするとひとが来ない、ということがあった。べつにこれらは矛盾ではないとするひともいたが、運動体内部では矛盾だと捉えられることが多い。少なくともバランスをコントロールする必要があることは何度も言及されている。その意味で、運動の方法論において、こうした「楽しさ」「不真面目さ」あるいは「笑い」というものは、矛盾をはらんだ存在である。
戦後の関西のほとんどあらゆる社会運動において、こうした「ひとを集めるための面白さ」と、「出発点としての原理的なしんどさ」とは、対立してきたとまでは言わないにしても、つねに緊張関係にあった。これを「政治」と「当事者性」との緊張関係と置き換えてもよいだろう。
3. 当事者性としての笑い
たしかに、土肥さんや上野さんを始めとして、関西の運動家にはトークの上手なひとが多い(他にもコリアNGOセンター事務局長の金光敏氏の語りはぜひ聞いてほしい)。だが、そうした方々とお付き合いしてみると、演説や講演だけではなく、日常会話でもつねにボケたりつっこんだりしているひとが多い。私は、そうしたひとたちに、部落や在日や沖縄や障害や女性など、さまざまな問題と闘う場面で、数多く出会ってきた。それどころか、これは個人的な経験だが、「信頼できる」と思わせるような方(不遜な言い方かもしれないが)にかぎって、そうした方が多かった。みんな、プロの芸人でもないのに、鉄板でウケるネタを持ってるとか、今日は笑い取れたから勝ちやとか(こうした場合の「勝ち負け」とは一体ぜんたい何だろうか?)、トークの序盤で笑いを入れて全体の構成を見事に計算していたり、まるで自らのセクシュアリティや民族性、差別や排除の問題よりも、今日その講演会でどれだけ笑いが取れたかどうかの方が大事にしているように見えることもあった。
社会運動も人間関係である。ふつう、ひとというものは、楽しい話をするところに集まるものだ。したがって、社会運動、あるいはもっといえば、ひとを動員するということにおいて、楽しく笑いを取ることができるひとは重宝される。しかしまた他方で同時に、運動の現場では、笑いを取るのが上手なひと、ひとを集めることができるひとは、商業主義、上手、器用、政治家、便利……そして不誠実とも、言われることがある。あるいは、そうした笑いというものによってなにかを排除してしまうのではないか、とも。
たしかに笑いというものは、まずは政治的なものであり、ある種の器用さや臨機応変さという才能が必要なものである。さらに、場を「身内(ミウチ)化」することで、「空気の読めないひと」を排除してしまうかもしれない。
しかし、土肥さんや上野さんの語りを聞くときに思ったのは、あるいは関西で頑張っている多くの若手の活動家に接したときにいつもいつも思うのは、あれは動員のために「わざと計算して」やっているのではないのではないか、そういう部分もあるだろうけども、むしろ笑いで自分の「バランスを取っている」のではないか、ということだ(土肥さんには「いや計算してやってます」と言われるだろうが……)。
例えば、日常的につきあっている、一部の仲のよい「当事者」や社会運動家たちで、ことのほか不謹慎な笑いが好きな友人がいる。ときにほんとうに笑えないぐらいの自虐的な冗談を飛ばす。こうした、非常に内密の、個人的な場における不謹慎な笑いについて、私たちはどう考えたらいいのだろうか。
こうした私的な場における笑いは、ひとを動員するためでも、政治的にうまく立ちふるまうためでもない、どうしてもその場でしか出せないような、ひじょうに密やかな笑いである。たしかにそれは一面では、その場の連帯感を高めて統合するよな、なにか「罪悪感を共有する」ような、同時にその笑いを共有できないものをはじき出すような、広い意味で政治的なはたらきを持っているものなのかもしれない。しかし、ともすれば酒の席でのトラブルを招きよせるようなそうした危険な笑いは、私は思うのだが、身をひきはがして逃れることができない、客観化も対象化もできないような何らかの状況に埋め込まれているいわゆる「当事者たち」にとって(あるいは少なくともその一部のひとたちにとって)、それなしにはやっていけないようなものなのではないだろうか。
人びとを動員するための政治的な技術としての笑いでもなく、あるいはまた、被抑圧者や被差別者たちが権威や権力をからかって一瞬のうちにそれを無効化するような「抵抗としての笑い」でもない、一見すると無目的で衝動的で、ときには自己破壊的ですらある笑い。例えば被差別部落の若者たちが自分たちの出身家庭の貧しさを笑う笑い、在日コリアンの運動家が自分たちのしたたかさを笑う笑い、沖縄出身の社会学者が自分たちの「肌の色の黒さ」を笑う笑いというものに、私はこれまで触れてきた。ときには場が凍りつくようなそうした笑いによって、私たちはなんとか現実と折り合いをつけ、バランスを保っているのではないだろうか。
「当事者」という言葉は、あまり良い言葉ではないが、それでもなにかの状況に埋め込まれ、他人事ではなくなり、切実なコミットメントが発生し、「にっちもさっちもいかなくなっている」ひとのことをよくいいあらわしている。こうした状況への埋め込みから逃れ、離れ、客観視し、「解離する」ために、こうした笑いという装置が必要なのかもしれない、と思うのである。
このようにかんがえると、社会運動やマイノリティのアイデンティティにおける笑いというものは、単に動員のために手段的に使われるものではなくなってくる。笑いというものそのものが、ある種の「当事者性」ともいえるのである。もちろんこのことは、当事者であればそういう笑いを生み出すはずだとか、すべての当事者がこのようなことをする、という意味ではない。ここで私は、それはたくさんある「当事者性」のひとつなのかもしれないという、控えめな提案をしているにすぎない。
社会運動における笑いを、動員のための政治戦略にも、「弱者のたくましさの武器」みたいなものにも、単純に転換してしまってはならない。それは何かもっと複雑で深刻で、実は「あまり笑えないもの」でもある。だから、笑いというものを、単に動員や組織化のために必要だから肯定する、ということではなく、それ自体が当事者性の現れであるという理由で、もっと根底から肯定したい。私は土肥さんや上野さんのような、「人びとに語る言葉を持っているひとたち」に接するたびに、そう思うのである。笑いを、その機能や役割からでなく、それ自体として考えていきたいと思う。