物覚えがよく、友好協力的な


米国が琉球の統治を始めたのは1945年で、その後の17年間に、米国の最新技術と外部からの資金援助、それに近代感覚に目覚めた琉球人の勤勉努力が加わって、新しい社会が築き上げられた。戦渦のあとには、ビル、舗装道路、公共施設などが建設されたのである。欧米で百年かかった工業化と近代都市化を、わずか十年あまりで達成した琉球人は、農工業、技術、都市などの面で、社会的にも政治的にも静かな革命を果たしたといえる。沖縄の進歩は、主として米国の国防支出と、沖縄の戦略地理的な位置のおかげであるが、物覚えがよく、友好協力的な琉球人が、地元産業と貿易を発展させている

沖縄を占領していた米民政府の広報パンフレット『守礼の光』(1963年1月号)より。ここには植民地主義というもののすべてがある。

沖縄の戦後の経済成長は米軍がもたらした、ということは、歴史家のあいだでは定説になっています。戦後すぐにガリオア/エロア両基金によって沖縄経済が復興し、基地関係受取も60年代には県総収入の4割にまでなったこともありました。

そういえば、コザで(お互い泥酔しながら)議論した海兵隊のひとりは、「俺たちが沖縄にインフラや富をもたらしたのに、なんでお前らは基地に反対するんだ」と言っていました。実際に米軍の内部でも兵士にそのような教育をしているみたいだな。

しかし私は基本的には60年代沖縄の高度成長は、初期条件としての米軍の援助があったとしても、県内人口の増加と那覇圏への集中による世帯増加、そしてそれによる消費材の需要増加と民間投資の急成長がもたらした「内発的」なものだと考えています。だいたい基地経済だけで考えていたら那覇圏への人口集中が説明できない。

話を戻せば、こうした「近代感覚に目覚めた琉球人の勤勉努力」「物覚えがよく、友好協力的な琉球人」というものの見方は植民地主義そのもので、「琉球人」のところにいくらでも他のマイノリティを当てはめることができます。

というか、あまりにもストレートに植民地主義まるだしの文章だったので、思わず引用してしまいました(笑)。

今回のエントリはここまでです。別にオチはありません。

ところで、学生たちに「植民地主義」という言葉を教えるときにいちばん通じやすいのが「上から目線」という言葉で、これはしかしほんまにようでけた言葉やな(笑)。

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