また淀川行った。たまたま夕暮れの時間で、なぜかずっと逆光のなかを歩いていた。そういえば30年ぐらい前はこのへんに野良犬の家族がいて、楽しそうに走り回ってたなあ。
遠い昔の思い出を、今の時間に対して遡るかのようにして歩いた。
しかしすっかり写真ブログみたいになってるな。まあええか。
岸政彦のBlog
河村信さんからNatura1600のフィルムをもらったので(もらってばっかりか)、せっかくなので道頓堀のィ夜を撮りにいった。
さすがだ。粒子は荒いけど、フラッシュなしでもぜんぜんきれい。カメラはこれも河村さんにもらった、いつもの Kyocera Tproof。
30年前、学生のときは、週イチでここらへんでオールで飲んでた。いまは外国人観光客の原宿みたいになってて、それはそれで活気があって賑やかで、楽しい。
最初の3枚は大正区の尻無川。ここで散歩したあとバスでミナミまで行って、ささやかに楽しかった。
最近ほんと、こういう「大阪市内をただただ歩くだけ」という散歩をする暇もない。
仕事減らしたい…。
沖縄社会学会・第1回研究大会のお知らせです。
このたび、「沖縄社会学会」第1回研究大会を開催する運びとなりました。
沖縄を研究する社会学者や民俗学者、歴史学者、人類学者、経済学者などは、数多く存在しますが、垣根を越えて研究を発表し、交流する場は、これまで多くはありませんでした。
私たち「沖縄社会学会」発起人一同は、こうした状況を打開し、実証的に沖縄の社会や文化や歴史や経済について研究する人びとが一堂に会する場をつくり、沖縄研究の発展に寄与するために集まりました。
沖縄社会学会は、かつて1977年に結成され、1987年まで活発に活動していましたが、さまざまな事情で30年にわたり活動を休止しています。しかし近年、沖縄をテーマとする研究は、量的にも質的にも格段に発展しています。私たちは、沖縄の実証研究のための場所の必要性がますます高まっていると痛感しています。
日頃より沖縄研究に携わっておられる先生方にぜひお集まりいただき、自由闊達な学的議論を交わし、知識を蓄積し、沖縄の平和と発展に貢献するために、再度沖縄社会学会を出発させようと願っています。皆様のご協力とご参加を、何卒よろしくお願い申し上げます。
発起人代表
安藤由美(琉球大学教授)
発起人
波平勇夫(沖縄国際大学名誉教授)、野入直美(琉球大学准教授)、鈴木規之(琉球大学教授)、澤田佳世(沖縄国際大学教授)
事務局
岸政彦(立命館大学教授)
* * *
記
第1回 沖縄社会学会研究大会
日時 2018年7月7日(土)15:00〜
場所 琉球大学法文学部2階202教室
(予約不要・参加費不要)
発起人代表挨拶 15:00〜15:10
報告者1 鈴木陽子(立命館大学大学院) 「沖縄のハンセン病療養所入所者にとっての戸籍復活」 15:10〜16:00
報告者2 坂下雅一(一橋大学) 「脱『集団視主義』的エスニシティ・ネーション論の効能―沖縄の研究文脈で」 16:10〜17:00
報告者3 安井大輔(明治学院大学) 「横浜市鶴見区の沖縄移民コミュニティにおける文化実践」17:10〜18:00
事務局挨拶および今後の予定について 18:00〜18:20
(終了後に懇親会を予定しております。詳細は当日お知らせします)
沖縄社会学会事務局連絡先
〒603-8577 京都市北区等持院北町56-1 立命館大学大学院先端総合学術研究科
岸政彦 kisi あっとまーく fc.ritsumei.ac.jp
PDF版のフライヤはこちら。拡散希望です。
シュレディンガーの猫の話が、むかしから嫌いだ。猫がかわいそうすぎる。
箱のなかに猫がいて、生きてる状態と死んでる状態が重なり合っている。箱を開けると、文系にはよくわからない理由で、生きてるか死んでるかはっきりする。
調べてみると、単に生きてるか死んでるかはっきりしたときの、死んでる状態って、たんに病気とかで死んでるんじゃなくて、青酸カリで殺すらしい。
シュレディンガーはなんてひどい話を考えるんだろう。シュレディンガーが憎い。
かわりに箱に閉じ込めてやりたい。シュレディンガーの猫ではなく、猫のシュレディンガー。箱のなかにシュレディンガーが入っている。生きてるか死んでるかわからない。猫が器用に箱をあけると(たまにキッチンのドアとかを開ける子いるよね)、シュレディンガーは、いつも生きている。猫は飼い主にそんなひどいことをしないからだ。
シュレディンガーと猫のふたりは、いつまでも仲良く暮らす。
ある日、シュレディンガーと猫が空を見上げると、銀色に輝くロケットが、空から降りてくる。ロケットは無事にシュレディンガーの庭に着陸する。中から1匹のライカ犬が出てくる。
ぼくをロケットに閉じ込めて、餓死するまで飛ばすなんてひどいよ。
ごめんごめん。びっくりした? ほんとうは、ちゃんと自動的に地球に帰ってくるように、ロケットをあらかじめプログラムしといたんだよ。
そうか、よかった。ほっとしたよ。
にゃー。
こうして、シュレディンガーと猫とライカ犬は、友だちになった。そしていつまでも仲良く暮らした。
連れあいのおさい先生がメキシコシティで開かれる学会で報告するために伊丹空港から飛行機に乗った。見送りにいった私はそのあと、どこかぶらぶらしようかとも思ったけど、猫のおはぎがひとりで待つ家にすぐ帰った。帰り道、スーパーにだけ寄って、ゴミ袋とか、石鹸とか、安売りの栄養ドリンクとかを買った。栄養ドリンクは別に栄養がほしいわけではなく、カフェインが50mg入っているので、夕方ごろの目覚ましにちょうどよいから、たまに買う。コーヒーより手軽にカフェインを摂ることができる。
帰り道、すぐ近所の路地裏の小さな家が、リフォームされてきれいになっていた。そういえばここふた月ほど工事をしていた。この家はもともとは小さな喫茶店で、そこのたまごサンドが美味しいとのことだったが、いちども食べないまま、店は閉店し、店舗部分もつぶして、すっかり普通の住宅に改築された。たぶん主人が高齢になって、会社員でもしている息子夫婦と孫が同居するために、店をつぶして家にしたんだろう。
そこのたまごサンドが美味しいと教えてくれたのは、そこから数軒となりにあった小さな小さなショットバーで、40歳ぐらいの、とてもきれいな女のひとがひとりでやっていた。ときどき遅い時間に飲みに行っていたが、仕事がとても忙しくなってきたのと、小さな店で他の客のタバコの煙が臭かったので、そのうち行かなくなった。
ある夜、ひさしぶりに行ってみると、店を閉めるのだという。ああ、そうなんや。どうするの、他でまたバーやるの?
いやー、もうめんどくさいことが多くて。女ひとりでやってるとねえ。いろいろね。
ああ、そうか、そうやろなあ。そうかあ。
家も引っ越すねん。たぶん○○町のあたりに住むと思う。仕事は何するかまだわからへん。
そうか。元気でなあ。
彼女には高校生の息子がいて、そのバーのすぐ隣の、小さな古いマンションのいちばん上の階に、ふたりで住んでいた。
どうして彼女がそんな路地裏の小さな店でバーをやっていたのかというと、数年前に、彼女の夫がこの街にある病院で亡くなったからだった。彼女は夫が亡くなるまで数年間、息子と一緒に病院に近いこの街に引っ越して、毎日通って付き添い看護をした。やがて夫が亡くなったあともこの街にそのまま住み続け、バーを開店した。
その店で酒を飲みながら、なんどかその話を聞いた。
あ、そうか。旦那さんの名前か……。
そうやねん、よう気づきましたね
その店の名前は、前半が彼女の名前、そして後半が夫の名前だった。それをつなげて、ひとつの言葉にしていたのだった。
スーパーのビニール袋を手にさげて、リフォームしたもと喫茶店の前を通り過ぎたとき、そこまで思い出した。
あのひと元気かなあ。息子はどこか進学したかな。
こないだ、教え子の結婚式の帰りにコンビニで、ゴミ袋が切れてたことを思い出して買ったんだけど、45Lを買わないといけないのに間違えて90Lの巨大な袋を買っちゃった。しばらくサイズに合わない大きなゴミ袋を使ってたのだが、そのうちおさい先生が買ってきたんだけど、またサイズを間違えて、こんどは30Lの小さいやつを買ってきた。これだとゴミ箱にはまらない。
それから2週間ぐらい経ってようやくさっき、スーパーで45Lのゴミ袋を、すぐになくならないように大量に買ったんだけど、家に帰ってきてキッチンで気がついた。半透明のやつが欲しかったのに、間違えて完全に透明なゴミ袋を買ってしまっていた。
ちょうどよいゴミ袋はいつ手に入るんだろう。
淡々と書きます。
きなこがいなくなった。
https://twitter.com/sociologbook/status/930026752147054593
きなこが突然いなくなってから2週間ほど経つ。きしさいとうはぜんぜん回復しない。毎日、突然どちらかが泣きだすと、つられてもうひとつのほうも泣きだす。椅子に座ったり立ったり、なにか動作をするたびにため息ばかりついてるし、泣きすぎて頭がいたくて頭痛薬ばかり飲んでいる。ぜんぜん効かない。
ずっと頭が痛くて、目の奥のほうが重い。ちょうどこれは、泣きすぎたあとの感じと同じだ。もちろん、一日じゅう泣き続けているわけではないが、泣いていないときでも、泣いてるときと同じような頭痛と、目の重さがある。
たぶん、自分でもわからない、脳の奥のほうでは、ずっと泣き続けているんだろうと思う。さすがにもう普通に電車乗って出勤して、授業も会議も出てるし、友だちとくだらない話もしてるんだけど、そういう、ほとんどきなこのことを忘れて普段通りの暮らしをしているときでも、自分からも見えないような脳の奥底のほうで、涙を流し続けてるんだろうと思う。だからこんなにずっと、頭が痛くて、目が重い。
だから、普通にメールとか書いてる途中でとつぜん号泣したり、そういうことが起きるんだろう。
* * *
たかが猫ぐらいで、と、自分でも思う。
33歳ぐらいで拾って、いま50だ。おさい先生は、27歳ぐらいだった。いま44歳。人生のいちばん真ん中の17年を、きしさいとうおはぎきなこの、4人で暮らした。
これからも楽しいことやうれしいことはあるだろうけど、「いちばん幸せだったのはいつか」と、死ぬ間際に振り返ったら、それはこの17年に決まってるだろうと思う。
ただ、やっぱり、たかが猫ぐらいで、と思う。
猫や犬は、15年とか20年ぐらいで死ぬからこそ、飼うことができる。もしその寿命が50年もあったら、あるいはもっと、死なない生きものであったら、私たちはそれを気軽に飼うことができない。
たかが15年ぐらいしか生きない、ということによって、飼うことが可能になっている。それが早く死ぬ生きものである、ということが、飼うということの前提になっているのだ。短くしか生きることができない、ということと、私たちがそのあいだ共に人生を過ごすことができる、ということは、同じひとつのことである。
だから、犬や猫を飼っている人びとは、かならずその別れを経験する。飼うことと別れることは同じひとつのことだから、犬や猫と別れることは、いわば、もっとも普通のこと、とても凡庸な経験だ。
みんながそれを経験する。
しかし、こんなにも多くの人びとが日常的に経験することを、自分が経験したとき、やっぱりそれは、とてもつらい。とても悲しくて、とてもさみしい。
そして、そのことも、みんな知っている。
つまり、それが凡庸でよくある日常的な経験である、ということと、実際に経験してみたときそれはとてもつらいことだ、ということを、みんな知っている。
FacebookでもTwitterでも、メッセージでもメールでも、あるいはリアルでも、たくさんのお悔やみの言葉をいただいた。そして、その言葉のどれも、とても抑えられた、淡々とした、簡潔なものだった。
犬や猫に限らず、人の死に際してもそうだが、表現が抑制的なのは、あなたの痛みを共有することはできませんが、という配慮の表れだ。そして、それを共有することができないということを、みんなが知っていて、だから、そういう、言葉の上では、簡単な、事務的な、定型的なものになっている。
痛みというものが存在する、ということと、でもそれを共有することはできない、ということと、そしてそれを共有できないということをみんな知っている、ということと。
私たちは、共有できないものでつながっている。「それを共有できない」という端的な事実を、みんなで共有している。
ここに配慮というものが生まれるのだろうか。
しかしほんとみんなやさしいな。
* * *
哲学で、こういう話がある。人間そっくりに反応するコンピューターがあったとして、別室で文字だけをつかってその機械と会話をする。会話をしている人間の方は、それが機械だとわからないぐらい、その会話能力は高い。人間はてっきり、自分が会話している相手も人間だと思い込む。
さて、この場合、会話している相手というのは、心を持った人格だろうか。あるいは、私たちは、心というものを人工的に作ることができるだろうか。できたとして、それをどうやって検証できるだろうか。
* * *
私はこれまで犬や猫と家族になってきた。そして彼女たちを失って、とてもつらい。飼っていた犬が死んだのは30年も前だが、いまだに夢に見る。
彼女たちは、人間とまったく同じではない。しかし、家族になることができる。もし、人間とそこそこ会話を交わすことができる機械があれば、たぶんそいつと家族になることもできるだろう。
私たちはそういう機械とも家族になって、一緒に暮らしていくだろう。そして、それを失ったときも、ほんとうの人間の家族を失ったときと同じくらい、泣くだろう。
* * *
さようなら、きなこ。さみしいよ。
おはぎは普通に元気です。これからも溺愛していきます。
次の研究会のお知らせです(今回から研究会の名称から「大阪」がなくなっております)。東京大学大学院生の大和冬樹さんにご報告いただきます。コメンテーターは立命館大学の筒井淳也先生です。
詳しくは以下を御覧ください。都市の貧困、統計的因果推論、近隣効果論などがキーワードです。まだあまり日本に導入されていない、米国の最新の統計技法についてご関心がある方は、お誘いあわせの上、ぜひぜひご参加ください。せっかくの交流の機会なので、院生さんも連れてきてください!
それではよろしくお願い申し上げます。参加自由・予約不要です。
* * *
第8回 社会調査研究会(A研)
〈日時〉
2017年10月7日(土)14:00~18:00
〈場所〉
「コモンルーム中津」6階セミナールーム
地下鉄御堂筋線「中津」3番出口すぐ/阪急「梅田」駅(茶屋町)から徒歩10分
大阪市北区豊崎3-15-5
http://cr-nakatsu.com/
〈報告者〉
大和冬樹(東京大学大学院)
〈コメンテーター〉
筒井淳也(立命館大学)
〈報告タイトル〉
「近隣効果論とは何か ―米国都市貧困研究の達成と課題―」
〈概要〉
近年米国の都市貧困研究では、近隣効果(Neighborhood Effect)論が隆盛を見せている。近隣効果とは、個人の社会経済的属性を超え、貧困が集中した空間の特性それ自体が貧困現象に影響を与えているのではないかとの仮説のもと、居住地それ自体が持つ効果を探求する研究プログラムである。本発表では、将来的な日本の貧困研究への応用を見据え、この近隣効果論のレビューを行う。まず、米国での発展動向を紹介した上で、この近隣効果論の方法論上の特徴と既存研究に比して優れている点、また、近隣効果論が研究プログラムとして抱えている問題点を指摘する。そして、日本において近隣効果論を導入する際はどのような点に留意すべきかを検討する。
〈報告者からの一言〉
次回研究会は、「近隣効果論とは何か―米国都市貧困研究の達成と課題―」ということで、米国の貧困研究で近年隆盛を見せている近隣効果(Neighborhood Effect)論についてご紹介します。この近隣効果論は、貧困が集中した空間の特性それ自体が、個人の社会経済的属性を超え、貧困現象に影響を与えているのではないかとの仮説のもと、居住地それ自体が持つ効果を探求する研究分野です。米国では1980年代末より進展してきた分野なのですが、本邦ではほぼ未導入なのが現状です。
近隣効果論は、米国で蓄積されてきた大規模パネルデータや移住実験データを元に、統計的因果推論を用いることで、貧困が集中する都市空間をいかに分析しうるかという点で方法論的に大きな示唆を持ち、日本の貧困研究の応用可能性を秘めています。その一方、米国で行われている近隣効果研究をそのまま日本に移植するには困難な点があり、また近隣効果論自体の方法論上の限界も存在します。本発表では、それらの点も含め近隣効果論について鳥瞰図的なレビューを行いたいと思います。