淡々と書きます。
きなこがいなくなった。
https://twitter.com/sociologbook/status/930026752147054593
きなこが突然いなくなってから2週間ほど経つ。きしさいとうはぜんぜん回復しない。毎日、突然どちらかが泣きだすと、つられてもうひとつのほうも泣きだす。椅子に座ったり立ったり、なにか動作をするたびにため息ばかりついてるし、泣きすぎて頭がいたくて頭痛薬ばかり飲んでいる。ぜんぜん効かない。
ずっと頭が痛くて、目の奥のほうが重い。ちょうどこれは、泣きすぎたあとの感じと同じだ。もちろん、一日じゅう泣き続けているわけではないが、泣いていないときでも、泣いてるときと同じような頭痛と、目の重さがある。
たぶん、自分でもわからない、脳の奥のほうでは、ずっと泣き続けているんだろうと思う。さすがにもう普通に電車乗って出勤して、授業も会議も出てるし、友だちとくだらない話もしてるんだけど、そういう、ほとんどきなこのことを忘れて普段通りの暮らしをしているときでも、自分からも見えないような脳の奥底のほうで、涙を流し続けてるんだろうと思う。だからこんなにずっと、頭が痛くて、目が重い。
だから、普通にメールとか書いてる途中でとつぜん号泣したり、そういうことが起きるんだろう。
* * *
たかが猫ぐらいで、と、自分でも思う。
33歳ぐらいで拾って、いま50だ。おさい先生は、27歳ぐらいだった。いま44歳。人生のいちばん真ん中の17年を、きしさいとうおはぎきなこの、4人で暮らした。
これからも楽しいことやうれしいことはあるだろうけど、「いちばん幸せだったのはいつか」と、死ぬ間際に振り返ったら、それはこの17年に決まってるだろうと思う。
ただ、やっぱり、たかが猫ぐらいで、と思う。
猫や犬は、15年とか20年ぐらいで死ぬからこそ、飼うことができる。もしその寿命が50年もあったら、あるいはもっと、死なない生きものであったら、私たちはそれを気軽に飼うことができない。
たかが15年ぐらいしか生きない、ということによって、飼うことが可能になっている。それが早く死ぬ生きものである、ということが、飼うということの前提になっているのだ。短くしか生きることができない、ということと、私たちがそのあいだ共に人生を過ごすことができる、ということは、同じひとつのことである。
だから、犬や猫を飼っている人びとは、かならずその別れを経験する。飼うことと別れることは同じひとつのことだから、犬や猫と別れることは、いわば、もっとも普通のこと、とても凡庸な経験だ。
みんながそれを経験する。
しかし、こんなにも多くの人びとが日常的に経験することを、自分が経験したとき、やっぱりそれは、とてもつらい。とても悲しくて、とてもさみしい。
そして、そのことも、みんな知っている。
つまり、それが凡庸でよくある日常的な経験である、ということと、実際に経験してみたときそれはとてもつらいことだ、ということを、みんな知っている。
FacebookでもTwitterでも、メッセージでもメールでも、あるいはリアルでも、たくさんのお悔やみの言葉をいただいた。そして、その言葉のどれも、とても抑えられた、淡々とした、簡潔なものだった。
犬や猫に限らず、人の死に際してもそうだが、表現が抑制的なのは、あなたの痛みを共有することはできませんが、という配慮の表れだ。そして、それを共有することができないということを、みんなが知っていて、だから、そういう、言葉の上では、簡単な、事務的な、定型的なものになっている。
痛みというものが存在する、ということと、でもそれを共有することはできない、ということと、そしてそれを共有できないということをみんな知っている、ということと。
私たちは、共有できないものでつながっている。「それを共有できない」という端的な事実を、みんなで共有している。
ここに配慮というものが生まれるのだろうか。
しかしほんとみんなやさしいな。
* * *
哲学で、こういう話がある。人間そっくりに反応するコンピューターがあったとして、別室で文字だけをつかってその機械と会話をする。会話をしている人間の方は、それが機械だとわからないぐらい、その会話能力は高い。人間はてっきり、自分が会話している相手も人間だと思い込む。
さて、この場合、会話している相手というのは、心を持った人格だろうか。あるいは、私たちは、心というものを人工的に作ることができるだろうか。できたとして、それをどうやって検証できるだろうか。
* * *
私はこれまで犬や猫と家族になってきた。そして彼女たちを失って、とてもつらい。飼っていた犬が死んだのは30年も前だが、いまだに夢に見る。
彼女たちは、人間とまったく同じではない。しかし、家族になることができる。もし、人間とそこそこ会話を交わすことができる機械があれば、たぶんそいつと家族になることもできるだろう。
私たちはそういう機械とも家族になって、一緒に暮らしていくだろう。そして、それを失ったときも、ほんとうの人間の家族を失ったときと同じくらい、泣くだろう。
* * *
さようなら、きなこ。さみしいよ。
おはぎは普通に元気です。これからも溺愛していきます。
生きているものの死が辛くて怖くて子供は要らないと言ってた主人が46歳で2014年に亡くなりました。同級生で結婚生活も24年になり私は自分の半分が根こそぎ一緒に無くなってしまいました。若い頃彼は子猫を拾って助けてあげられなかった事をずっと後悔していると言っていました。どんな生き物も死ぬ。子供に先に死なれたら辛いじゃないか、と。そんなのわからないじゃない、とは思ったけれど反論出来ませんでした。私にも自分より絶対先に死ぬなと言っていたのでその言葉は守ってあげられました。ひとりぼっちになってしまった私の気持ちは誰とも共有出来ない。でも辛抱強く励まし、声を掛けてくれる人がいる限りは大丈夫、と思っています。
突然長々とすみませんでした。おはぎちゃんと、お二人、どうか身体に気を付けて…
言葉もありません……。高橋さんも、どうかお身体、大切になさってください。
心のこもったコメント、ありがとうございました。