不安と憎悪の果て

いま東京へ向かう新幹線の中でこれを書いている。

さきほど、地元で「大阪市廃止」を決める住民投票に行ってきた。大阪市の片隅の小さな下町だが、そろいのオレンジ色のTシャツを着た維新の人たちがあちこちに立って、賛成を呼びかけていた。

現役の大阪市長が、公務もせず、100年以上続く大阪市の解体をひたすら呼びかけている。こんなに大事なことが、こんなにあっけなく、簡単に決められようとしている。

今回の結果は、ほんとうにわからない。事前の世論調査では反対派が若干多かったようだが、いくらでもひっくり返せるぐらいの差でしかない。

投票所の周辺にも、維新の人びとや、反対派の人びとがたくさんいた。そして、たくさんの近所の人たちが、投票に来ていた。

私はぼんやりと、このおっさんはどっちかな、この小さい子どもを連れた若いお母さんは賛成したんかな、このサンバイザーをしてヒョウ柄のブラウスを着たおばちゃんは反対派かな、と考えていた。

そして気がついた。私たちは、近所の人たちを見るたびに、こいつはどっちやろ、このひとはこっち側かな、あっち側かなと思うようになってしまったのだ。

テレビタレント出身のポピュリスト政治家が、敵意や憎悪や不安を煽って大阪の街を引っかき回した結果、私たちは、同じ街で暮らすもの同士で、お互いを、いちいちどちら側だろうと考えてしまうようになった。

結果がどっちになろうと、憎悪と不安によって生まれたこの「区別」は、この先もずっと残るだろう。この先もずっと、あいつはあのときあっち側だったからな、あいつはあんなこと言ってるけどあのときあっちだったくせにと、思うようになるのだ。

そのとき、あのポピュリスト政治家は、とっくにこの街を出て、「中央」にいるだろう。

そして私たちは、そのあともずっと、この街で暮らすのだ。東京の大企業がカジノでぼろ儲けをするのを、指をくわえて横目で見ながら。

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