「パーマ屋ゆんた」の歌詞の意味

沖縄のBEGINというバンド、ちょっとベタすぎて、沖縄の勉強をしていてBEGINが好きだというと恥ずかしいぐらいの話だが、実際にそれほど音楽的に好きなわけではないけど、いつも歌詞が面白いなと思う。いまのリアルな沖縄を描いている。

たとえば、有名な「オジー自慢のオリオンビール」。

http://j-lyric.net/artist/a000775/l00af7d.html

何かといえば沖縄でかならずかかる有名な曲だ。このなかの、「かりゆしウェア」とか「高校野球」というフレーズも、とてもリアルだけど、

・不景気続きでちゃーならん(どうしようもない)/内地で仕事を探そうかね

このフレーズにはどきっとする。戦後の内地(日本本土)への出稼ぎや就職については、拙著『同化と他者化』でまとめて書いたが、それはいまでも沖縄のひとびとの、日常の一部になっている。

・戦後復帰を迎えた頃は/みんなおんなじ夢を見た

宴会で盛り上がるための定番となった楽しい歌に、こういうフレーズがさりげなく挟まれている。

沖縄戦や、復帰運動、そしていまも続く基地問題を経験した沖縄の人びとにとって、「内地」という言葉がもつ意味は、もちろん「私にはわからない」と言うしかない。

ただ、ほんとうに、日本(内地)と沖縄の関係は、日常生活のレベルで、とても複雑なんだなと思う。

そういう、内地というものの意味について歌った、とても印象的な歌がある。

「パーマ屋ゆんた」
http://j-lyric.net/artist/a000775/l0225a4.html

簡単にいうと、主人公は、街の(村の)小さなパーマ屋さんのおばちゃん。店の常連の、近所の女の子に語りかける歌だ。常連客というより、家族ぐるみの付き合いで、親戚みたいになっている。

ここで、親戚にせずに、近所のパーマ屋にしたところが、まず面白いと思う。

女の子はおそらく高校3年生で、次の日から、内地の大学か専門学校に進学することになっている。

内地に行く前の日に、どうして近所のパーマ屋に来たんだろう。子どものころから可愛がってもらったおばちゃんに挨拶に来たんだろう。両親から、行っておいで、と言われたのかもしれない。

もうひとつ、内地に行くときには、新しい服で、美容院にも行ってから行く、ということなのかもしれない。

「寮があるから安心さ」と言っている。やっぱりちょっと、まるで我が子のような子を、ひとりで内地に行かせるのは、不安なのだろうか。「父ちゃんはなんて言ってるの?」父親は特に不安なのだろう。

なんども沖縄で聞き取りをしているが、たとえばお子さんが内地に行くことについてはどうですか、と聞くと、多くが、別にかまいません、むしろもっと広い世界を見てほしい、と語られる。しかし同時に、特に父親は、「やっぱり女の子は、そばにいてほしいね」とも言う。「いつかは帰ってきてほしい」。

「なんであんたの人生さ」「なんであんたがヒロインさ」の「なんで」は、「どうして?」と聞いているのではなく、「そうよ」「そうだよね」ぐらいの意味だ。

「琉球舞踊は続けてね」のフレーズも、とても良い。沖縄は伝統芸能がとても盛んな地域で、習い事やお稽古事として子どもにさせる、ということは、わりと一般的にある。

内地に行く場所は、おそらく東京か、あるいは親戚のいる大阪かもしれない。いまもっともたくさんの人が移住するのは東京だが、大阪にも戦前から戦後にかけて、多くの沖縄出身者が移住したので、現在でもたくさんの沖縄系の人びとが暮らしている。

東京や大阪には、沖縄の人びとがたくさんいて、琉球舞踊や三線の教室もたくさんある。だから、進学した先で、琉球舞踊を続けていくことも可能だ。

どうして「帰りの飛行機は混んでる」のだろう。それは、みんなUターンするからだ。東京や大阪で、そのまま永住するひとも多いけど、沖縄は戦後ずっと一貫して人口が増えていて、出稼ぎや進学・就職で内地に移り住んだほとんどの人びとがUターンしていることが推測される。

もっとも胸を打つのは、このパーマ屋のおばちゃんが、いつかは帰っておいで、とはっきりと言ってはいないことだ。せいぜい、帰りの飛行機は混んでるよ、つまり、みんな帰ってくるんだよ、とは言うが、ただの近所のパーマ屋までがこんなに親戚みたいな付き合いをする、この優しく温かい共同体にふたたび帰っておいで、とは言わない。

それはたぶん、赤ちゃんのころから自分の子どものように可愛がったこの子の、将来の可能性のことを思っているのだろうと思う。

沖縄は、共同体がとても強いところだ、とよく言われる。社会学の本にもたくさん、そう書いてある。しかし、共同体が強ければ強いほど、そこが温かければ温かいほど、共同体のなかで生きていくひと、そこから出ていくひと、そこへふたたび戻ってくるひと、そこから排除されるひと、そこに縛りつけられているひと、そこから距離をおくひと、などなどの、多様で、複雑な物語が生まれる。

「パーマ屋ゆんた」は、その短い歌詞のなかに、沖縄の共同体と、そこから出ていってしまうひと、そしてそれを見送るひとの物語が、すべて詰まっている。

“「パーマ屋ゆんた」の歌詞の意味” への7件の返信

  1. 沖縄県民です。
    愛に溢れる解説ありがとうございます。

    お礼ついでに「なんで」の補足を。
    今回の歌詞のような場面での「なんで」は、
    直訳的には「(なんで)どうしてそんな顔してるの?(気にしてるの?)気にしなさんな」という言葉を一気に要約して「なんで」となっています。
    「そうだよね」とかの同意的な意味合いよりは、何かを気にしてモジモジしている人へ「~のことは気にするな」というようなハッパをかけるような背中を押すようなニュアンスに近いと思います。

    私はこの歌詞を読んで以下のようなやり取りが目に浮かびました
    おばさん「明日には内地だねー。頑張ってきなさいよー」
    娘「・・・」
    おばさん「はーしぇ、何でこんな暗い顔してるわけ?なんであんたの人生さ、父ちゃんの心配はしないでも大丈夫よー、ハイ、頑張っておいでよ」
    娘「うん・・・(苦笑)」

    蛇足ですが
    「琉球舞踊は続けてね」の前の「あの頃三つ編みだったよね」には、
    (現在は違うけど)沖縄のほとんどの中学校は基本的に長髪禁止で女子は肩につかない程度(男子は丸刈り)との校則となっているが琉舞をやっている子だけはおさげにしたらOKという特例があるという、細かいリアリティーで娘とおばさんのあの頃を表現しており、尚且つ次の「琉球舞踊は続けてね」に繋がるところにはとても感心しました。

  2. おお、詳しい解説、ありがとうございます!!

  3. 私はビギンの歌でこの歌が一番好きです。
    映画のワンシーンのように情景が浮かぶし、おばちゃんの笑顔に泣けます。

    詳しい解説ありがとうございました。
    またひとつ泣ける歌に聞こえてきます。

  4. 私は内地へ進学するために沖縄を出て数年が経ちますが、この歌を聴くたびに、沖縄を出た日を思い出します。
    偶然にもこの歌に出会うよりも前に、私も内地へ行く直前に幼いころから家族ぐるみでお世話になっている昔馴染みの美容室へ行き、大学合格報告をした経験があります。内地へ行くため、そして大人へ一歩近づくためにパーマとカラーをしました。その時の美容師さんは、その代金を『合格祝いさ〜内地でも頑張ってよ〜』といって無料にしてくださいました。当時の私は期待も不安も入り混じっていましたが、その美容師さんのご厚意のおかげで不安よりも、新しい自分になって内地で頑張ろう!と思えたのを今でも昨日のことのように思い出します。

    歌詞の解釈を知ることでまた少し沖縄が大好きになりました。ありがとうございました。
    蛇足ですが、私としては[帰りは混んでるのがふるさと]は、以下のように解釈していました。
    〈皆が帰省してくる時期(お盆、年末年始)は、ふるさと沖縄は観光地のため、帰りたくても飛行機の予約も取りにくければ、席も混雑しているけど覚悟しておきなさい。(多くの人が行きたくなる場所があなたの故郷なのよ、誇りをもちなさい。故郷が観光地である宿命)〉
    実際、私が帰省の度に実感している部分です(笑)
    最後に、沖縄の共同体精神の強さ、それがあたりまえの文化として根付いていることは 離れてみなければ気づけない部分でしたが、今では助け合う文化があたりまえの故郷に生まれてとても誇りに思います。

    1年以上前の記事に、長々と失礼いたしました。

  5. 私は、内地うどん県今在住してますが、出身は、我が愛する龍馬様土佐出身で、讃岐の出身主人と、次女が、嘉手納基地近くで、家族作りました、戦後戦士で出兵してた父方叔父は、終戦孤児三名連れ土佐に帰って、三名孤児中学迄育てて、三名の気持ちに、任せたそうです、三名が感謝述べて、両親も身内も居てないけど、沖縄に帰って行ったそうですが、交流は、続いてたらしく、私の父が、去った時に、ほんまに暖かい沖縄の言葉でねって、言葉が子供やったから記憶出来てなかったのですが、ビギンのいちょりばゆいやさって歌だったのです、父親っ子で、育った私が、今香川県民で、しかも、次女が嘉手納基地近くでって、無意識の中で私が何で沖縄大好きなんって、この歌は、私したら、逆で、本土決戦沖縄でしかなかったけど、内地でも、沖縄に、気持ち深い人も、居てるわって、知って欲しいかなぁ、次女も、やっばり根深い内地批判で、差別受けた事も、合って心痛めて帰ってきた時も、ありました、今は沖縄在住の息子と、出会い嘉手納基地近くで、子供三名で、わちゃわちゃ暮らしてて、戦後の方達共、父他界してから、又次女が縁づけてくれて、母が再会果たせました、私自身何も親孝行出来へんけども、次女が縁づけてくれたと、このパーマ屋ユンタは、ほんまにいつも車で、流しながら、だけど聴いてまうほんまに私自身の心の歌なってもてます

  6. 初めてこの曲を聴いた時の、なんとも言えない、切なくて、そして温かい気持ち。何度聴いても泣けてしまう名曲ですね。内地に生まれ育った私には、島を旅立つ人、それを見送る人の思いは想像することしかできませんが、とてもとても繊細に、優しく、描かれていますよね。
    「明日は内地に…」のフレーズで締めくくられているのも、目頭ジーン、です。
    「だからパーマ屋があるわけさ」って凄く、深いなぁ。

  7. 「パーマ(ダンパチ)ヤー」というのは、沖縄の共同体の中に必ずあるんです。
    単に人付き合いの濃密さを表現するものではなくて、沖縄独特の共同体のアイコンの一つなんです。
    日本本土でいうところの商店街の魚屋、八百屋、みたいな感じですかね。
    単なる商業施設の隣人、ではなく、地域の生活史に必ずあるもの、としてパーマ屋というテーマを取り上げてるんですね、この歌は。

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