人が減ってしまうことについて。

被災地から人口が流出してることが「問題」だっていう語られ方と、都市部落から人口が流出してることが「問題」だっていう語られ方が似てるなあと思った。語ってるのは前者はマスコミや政治家、後者は内部の運動団体だけど。

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被災地からどんどん人が減ってしまうことが問題なんですよ、と、テレビの解説者や学者や政治家が語る。

ひとつのコミュニティや街が消えてしまうということは、そこに住んでた人たちや、その地域につながりがある人たちにとっては、悲しくて辛いことだろう。

だけど、さいきん何人かの政治家が、「ここにはもう人は住めない」とか「別の場所に住んだほうがよい」とか言って、激しく批判されるということが続いている。

なんだか、まるで津波なんかはじめから無かったかのような、完全に「元のままの街」にすることが「復興」だっていうことになってるみたいだ。

もとから人口が著しく減少している地域だし、高度成長期前みたいな活気のある漁師町に戻ることはかなり難しい。特に津波があった後では、それは本当に難しいことだろう。厳しい言い方をすれば、もともと斜陽だった産業を、これまでよりもはるかに多額の税金を注ぎ込んで保護するだけの結果になってしまうかもしれない。

さらに、被災地に限らず一般的に言っても、人口が減少する時代では、人びとは僻地に散らばって住むより、各地域ごとの中核都市に集まって住んだ方が、行政サービスも医療もビジネスも効率的なんじゃないかと思う。

もちろん、このままこの街に住み続けたい、という人びとの気持ちは最大限に尊重されるべきだし、そのために(経済ではなく)政治というものが存在するのだろう。

でも、元のコミュニティをそのままの形で再生することはできませんよ、ある程度の移動は仕方ないですよ、というと、感情的に批判されてしまう。

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他方で、都市部落でも、内部の運動団体に関わる何人かの人たち(全てではない)も、地域から人が減ってしまうことにものすごく危機感を持っていて、なんとかして「人口を増加させる」ことができないかを考えている。

都市部落の場合は被災地とはまったく逆に、これまでの運動や施策が成功して、学歴や階層を上昇させることができた人たちの多くが、周辺地域にマンションや建て売り住宅を購入して住んでいるので、「流出」といっても、どこかへ消えていなくなってしまうわけではない。都市部落の流出は、運動と施策の成功の結果という側面がある。

だが、一部の運動方針として、減ってしまった若年層や中間層を呼び戻そうと叫ばれることがある。そのために、特に流出した中流階級の人たちが戻ってこれるように、何らかの優遇策を打ち出すことが必要だと言われることもある。

確かに、いま都市部落に残っているのは貧困層と高齢者ばかりなので、「この人たちの面倒を誰が見るんだろう」と考えると、若年層や中間層が流出して運動団体が弱体化していくことには危機感を感じる。

しかし、人口流出と高齢者の滞留を前提にして街づくりをすべきだと言うと、やや感情的な反応をされることがある。私たちのコミュニティを「否定」するのですかと、まあさすがにそこまではっきり言われたことはないけど、まあでもそういうふうに思ってるみたいだな、と感じたことは何度もある。運動の最盛期だった60年代や70年代を知ってる人たちは特にそうだ。

でも、運動の最盛期のころのように、たくさんの人たちが地域に住んで運動に参加するように「人工的に」することは、たぶんもうものすごく難しくなっているだろう。60年代から今までのあいだにあった、マクロな社会変動や経済変動を、まったく無かったことにすることはできない。そういう変動の結果として地域の人口流出はあるのであって、それはミクロな優遇策とか啓発活動などで逆転させることはできない。

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なにかの大きな出来事があって、そのせいで、ある地域に大きな変化が生まれているときに、その変化に対応して適応しましょうよ、というと、その変化が起きるまえのコミュニティの「価値を否定」しているかのように解釈されてしまう。

このへんが似てるなあと思った。

動物愛護関係の法律のパブリックコメントを送ろう。

いやあ知らんかった……ついさっき知った。今日(8/27)までです!!急ごう!!!!!

まずはここの「ほぼ日」のページをご覧ください。

犬と猫と人間のはなし

よくまとまっています。上から順番に読んでいってください。

パブリックコメントの受付先も文章の書き方もすべて載っています。

これでも十分なのですが、私なりに例文に書き加えたものを以下に掲載します。急いで書いたので、もとの文章にほんの少し書き足しただけです。もしもっとよい文章を書いたひとは、どうか私にも教えてください。

みんなで送りましょう。日本の現状は本当に、本当にひどすぎると思います。

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「動物取扱業の適正化について(案)」に関する意見

1)意見提出者:岸政彦

2)住所:〒ooo-oooo 大阪市oo区ooooooo

3)連絡先電話番号:06-oooo-oooo
メールアドレス:kisi(@)sociologbook.net

4)意見:

■「2(1)深夜の生体展示規制」について

・本来は爬虫類なども含めるべきですが、とりあえずは犬や猫、猿、ウサギなどのほ乳類について、20時以降の生態展示は禁止すべきです。

・更に1日の展示時間、連続展示可能時間、休憩時間を設定すべきです。(例:週に5日間、2日間は休み。1日8時間、連続4時間、休憩1時間)

■「2(2)移動販売」について

・動物の移動販売については、動物のストレス、トレーサビリティ、アフターケア、感染症などの問題があり、これを禁止すべきです。

■「2(3)対面販売・対面説明・現物確認の義務化」について

販売形態に限らず、動物の販売方法として、販売時の対面説明と現物確認ができない取引はすべて禁止すべきです。対面販売・対面説明・現物確認の義務化に賛成です。

■「2(4)犬猫オークション市場(せり市)」について

・動物愛護の観点でいえば、本来オークション自体を廃止すべきです。

・動物取扱業に含めるべきです。

・トレーサビリティーの確認ができないオークションは法律で禁止すべきです。

[理由]

現在、オークションでは繁殖業者と販売業者が直接接触できないしくみになっており、トレーサビリティーが機能しない主原因になっています。せりによる価格の売買だけではなく、その後に販売業者がトレーサビリティーを確認できたことをもって、取引成立とするようにしくみを変更すれば、取引上問題ないはずです。そもそも買い手が購入する犬猫の情報を取得できないこと自体、売買取引として不健全です。監督官庁は放置すべきではありません。この問題が解決しない限り、オークション問題は何も解決しないと言っていいでしょう。今回、絶対に反映すべきだと考えます。

■「2(5)犬猫幼齢動物を親等から引き離す日齢」について

今後、具体的に推進していくためには、海外事例が豊富な8週齢にし、規制は強制力のある法改正で導入すべきです。

[理由]

前回(5年前)の改正時に事業者による自主規制を充実させるために改正を見送った項目であり、また見送って10年先送りにするのは、一国民として絶対に認められません。

■「2(6)犬猫の繁殖制限措置」について

・事業者による自主規制に任せるのは反対です。

・犬猫共に年に2回以上、一生のうち6回以上出産させてはならないと法で規制すべきです。

・犬猫共に繁殖を目的として、1歳未満のメスに出産させてはならないと法で規制すべきです。

■「2(7)飼養施設の適正化」について

・犬や猫の習性や生物的特徴に合わせた飼養施設の法的規制が必要と考えます。犬や猫の体長や体高に基づいた、何らかの数値化を求めます。

■「2(10)登録取消の運用の強化」について

「虐待の違法性をどこが・何をもって判断するのか」は、大変重要な問題であり、現在の体制だけでも公に広めるべきです。(例:動物の虐待を見掛けたら最寄の警察署へ通報できるようにする。)また、虐待をしていると判断された業者は、即時登録取り消しなどの行政処分を下されることが絶対に必要です。

[理由]

虐待現場を目撃しても、どこに通報すればいいのか知らないでいる人が多いのが現状です。動物愛護の観点から見て、あまりにレベルが低いと思います。虐待を見つけたら、一般の人はどこへ連絡すればいいのか、それがどんな体制で解決されていくのか、体制として周知すべきです。また、獣医師による助言等によって虐待かどうかを行政が判断し、該当する業者に何らかの処分を下せるようにすることが必要です。

■「その他:殺処分方法の改善」について

少なくとも幼齢・高齢の犬猫に対しては、二酸化炭素のみによる殺処分を禁止し、麻酔薬併用の方法に改善すること。

[理由]

動物愛護の観点からも、二酸化炭素による殺処分方法は原則禁止するべきです。自治体によって頭数や予算による違いがあって一律の規制が難しいのであれば、「子猫子犬」に限定して実施するなど、殺処分の頭数が減少した現在、可能なはずです。二酸化炭素による方法を選択する理由はありません。二酸化炭素の処分について、問題があることは国も認めている以上、放置することはできません。また、今回の法改正で反映しない場合は、中央環境審議会動物愛護部会において、専門委員会を設け、特に議論することを求めます。

モギケンが見ています

モギケンが見ています……!

 

モギケンが見ています……!

 

モギケンが見ています……!

 

モギケンが見ています……!

 

モギケンが見ています……!

 

モギケンが見ています……!

 

モギケンが見ています……!

 

モギケンが休んでいます……!

 

モギケンが風に吸い付いています……!

 

モギケンが生えてます……!

 

モギケンが階段の上から見下ろしてます……!

 

モギケンが歩いています……!

 

モギケンが……!

ヤクザのなりかた

FBで書きなぐったことシリーズ。よっぽど仕事で鬱憤がたまっているのか(笑)、「ちょっとヤクザになるわ!」といって、映画マニアの夫民哲さん(@miiin3 さん)から教えてもらったインファナル・アフェア3部作と、​北野武のアウトレージを借りてきて、先にアウトレージ見たところで感想は「ヤクザにならなくてよかった」でした。なんかもう究極のブラック企業の話を延々と聞かされてる感じだったな(笑)あそこまで暴力とか「イヤさ」をリアルに描いていくと、逆に映画として​は「じゃあ何が目的でこの人らこんなことしてるんだ?」って思っちゃうなあ……。とにかくスカッとすることが一度もないままずっと淡々とひどい暴力の話が続きました。でもめっちゃ面白かったけど。どっちやねん。しかしまあ途中でふっと「なんでこいつらこんなに殺し合いしてるんだ?」とスに返る瞬間も……。キャッチコピー通り「全員悪人」だと本当に感情移入するスキがない。ただもう「ああまた殺されたー」の連続。でも面白かったけど。どっちやねん。板谷由夏がたいへんにきれいでした。

ところでこれは某所で聞いた実話なんですが、昔ヤクザやった人が若いとき、モメた相手側の事務所にひとりで乗り込んで詫びを入れるときに、激昂してその場にあったでかいクリスタルガラスの灰皿を叩き割って、その破片で自分の指をツメたっていうエピソードを聞いて、さぞかしその現場では静まり返った空間に「ごりごりごりごり」っていう音だけが響いていたことと思われます。

その他にも若いときに親分のところに書生っていうか弟子?として住み込んだときの話もいろいろ面白かったけど、まあ具体的には書きませんが、めちゃめちゃホモソーシャルやな。そしてもんのすごい組織の規律がキツい。

一方で、その場で灰皿叩き割って自分の指を切り落とすぐらい腹が据わってないといけないし、他方で、親分からトイレでケツを拭けと言われたら拭かないといけない(これも実話)。

むちゃくちゃに極端な行動が取れて、しかもなおかつ、組織の一員として理不尽なほど厳しい規律に耐えなければならない。こういう稼業がどういうタイプのひとにつとまるかっていうと、それはたぶん、「自分というものがぜんぜん無いひと」だと思います。「ひと」っていうか、「男」な。

つまらない理由でも自分の指を切り落とすことができる、生理的にもっとも嫌悪感を感じるようなことでも自分の意思で平気でできるっていうのは、要するに、自分の感覚を自分から切り離すことができるっていうことで、それは普通のひとにはぜんぜんできないことだけど、たまにそういうことができるひとがいて、そういうひとがこの業界で生き残っていけるんだと、上の話を聞いたとき思った。たとえば、いまお前そこの汚物を食え、と言われて、口のなかに入れることができる。そのときの匂いとか味とか舌触りなんかと、自分の意識を切り離すことができる。

組織に入る最初のきっかけはくだらない強がりやいきがり、暴力衝動や欲望かもしれないけど、この業界にはこの業界なりの規範というものがあって、それは「男の美学」とかそういうこととはまったく無関係かもしれない。そこまで自分を捨てることができるっていうのは、欲望とか美学とかプライドとかそういう話じゃないよな。

美化できないし、よくないことだけど、それはそれで舐めてると痛い目にあうっていうか。

なるほど全部消えるわけだ。

なるほど,過去の投稿は,ファイルとして保存されてるんじゃなくて,データベースに保存されてるから,サーバを移設すると全部消えちゃうんだな。でもアップロードした画像とかは残ってるんだけど。全部消してイチからやりますか……

というわけで,商用レンタルサーバに移行しました。MySQLとWPも最新バージョンになりました。ひきつづきこのしょうもないブログをよろしくお願いします。

sgrdさん,長い間どうもお世話になりました!でもたぶんまだこれからもいろいろ迷惑かけるかも!

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追記! 某所に保管されていたデータをひとつずつ!各記事ずつ!手作業で移したんですが、記事の固有URLが全部ズレちゃって、はてブとかいただいたのにたぶんあれはアレですな、ほんとすみません……あとコメントもぜんぶ消えました。というわけで、またイチからやりなおしです。

別に大学教員の本質ってことじゃなくて単に組織の作り方の問題

あいかわらず facebook で遊んでます、別にリアルの知り合いじゃなくても友だち申請受け付けてますよー。本名で検索してください。ところでFBでもちょっとだけ書いたけど大学教員の仕事って三つあって、研究と教育と校務なんだけど、(ウチだけかもしれんが)研究と教育は異常に自由で放し飼いで、クリエイティブな人がたくさんいるのに、校務となるともうむちゃくちゃに無意味なことばっかりやってる。ちなみに俺がそういう役職にあたったときは無意味なことばっかりやるだけでなく、それを間違ったやり方でやってしまう。要するに無能っていうことだな。よう俺なんか雇ったな。うそですありがとうございます。まあそれはさておき、大学ってほんとに不思議なとこやなー。大学の経営なんか事務に任せといたらええんちゃうかとも思うけどそういうわけにはいかんし。けっきょく教員が集まってあらゆることに委員会立ち上げてぜんぶ会議で決めていかないといけない。そしてそのときの会議で何を決めているかというと、「もっとも効率がよい大学経営の方法とは何か」「もっとも学生を集めることができる方法は何か」「もっとも効果的な教育方法とは何か」ということではなくて、「こう言われたらどう言い訳するか」「ここ突っ込まれたらなんて返すか」「この規定とこの規定が矛盾してるけどどっちを変えるか」「この議題はこの会議で決めてよいことかどうか」などなど。民間のように「いかに儲けるか」という明確な目標がないので、目的と手段がすぐにいれかわる。そうこうするうちに18歳人口がどんどん減っていく。でも大学の教員っていわば「全員が交替で社長」だし、みんなで情報や議事を共有するのはものすごく大切だし、他のやり方もまったく思いつかないし。まあたぶん俺がまだ下っ端なので大学の組織についてよくわかってないっていうことなんだろうな。「そういうふうに見えてるだけ」なんだろう。よし納得した。さて今日も会議。昨日なんか5時間以上やってたわ。

科学と政治

先日、扁桃腺がめちゃくちゃ腫れて痛くて眠れなかったのでFBの方に書いたメモ。

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ポストコロニアルの「当事者の証言」の話や、解放社会学系の構築主義のライフストーリー論、それから臨床社会学に導入されたナラティブ論なんかをぱらぱら読んでると、実証主義を批判する議論がけっこう多い。

例えば、沖縄の集団自決の規模や形態、実際のプロセスや指揮系統などについて、事実のレベルで争うことは、証言者の「語る権利」や、もっといえば「思い」みたいなものを裏切ることになる(あるいはそれ自体が「権力=暴力の作用である」)ので、われわれはそうした語りに「共感的態度」で臨むべきだとされる。

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ときおり左翼というか「解放的認識関心w」のもとで研究してる人たちは、実証主義や科学のことを忌み嫌う。まず科学というものは「支配階級のイデオロギー」であるとされる。次に、なにかを科学的研究の対象とすることは、それを切り刻み、脱感情化し、その「価値」を否定し、きれいに脱色消毒消臭してカテゴリーのなかに並べ替えることだとされる。

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科学が政治的である、というのは、それはそうだろうと思う。それはいろんなレベルにおいてそうだろうし、そうでない科学はないだろう。でも「科学は政治である」といえるだろうか。

(1) 科学は政治的イデオロギーに左右される
(2) 科学的研究の対象にすることは、対象に対する暴力である

確かに、どちらも「そうである場合もありうるし、実際に歴史的にそうであったことも少なくない」とは言えるだろう。

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私たちは、「AはBである」ということを日々決定しながら社会を動かしているのだけど、たとえば「ある行為がセクハラである」ということが、どのように決定されるのだろうか。

私は実は、ある大学での人権問題担当(!)の教授がセクハラをおこしてクビになったときに、及ばずながら被害者の側の支援に回ったことがある。そのときわかったのは、セクハラの定義は「被害者がそれをセクハラだと思った行為」というように組み立てるしかないのだが、実際にある行為がセクハラであると「認定」されるまでには、かなり膨大な「社会的な手続きと相互作用」を経てなされるしかない、ということだ。

被害者が勇気を出して申し立て、良心的な弁護士が横につき、周辺に支援の輪が広がって、学内の良心的な教員も見方について、フォーマルな申し立て手続きに入ると、大学側にも調査委員会が立ち上がり、複数回の慎重な調査がなされ、繰り返しおこなわれる会議に何十時間も費やされる。

もちろんやる気のない大学も多いし、実際はもみ消されたりすることの方が多いと思うし、逆に冤罪でハメられた運の悪い教員もいるだろうとは思うけど、それでも「ああこうやって物事は『社会的に決定』されていくんだな」ということがよくわかった。

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このプロセスはまぎれもなく「社会的」で、おそらくはかなり「政治的」でもあったはずだが、それでもとにかく何らかの「結論」に到達していった。繰り返すが、この結論はまるっきり間違っていることもありえただろうし、被害者加害者双方にとって納得のいくものではまったくなかったであろうことも考えられるのだけど、それでも他のやり方によって何らかの結論に至るということは考えられないし、とにかく私たちはこういうやり方によって社会を動かしてきたのである。

そして、これは私個人の無根拠な信念かもしれないが、個々のケースのレベルにおいては、膨大なもみ消しや冤罪その他の「社会的プロセスの挫折」を含みながらも、全体としては少しずつ進歩していて、社会全体としてセクハラというものに敏感にはなってきているのである。

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もしこうした「物事の決め方」が、恣意的で政治的なもの「でしかない」のなら、それは私たちの歴史をすべてひっくるめてその全部を否定することになる。

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デイヴィドソンの「寛容の原則」を、「社会的に決定すること」にまであてはめることはできるだろうか。もちろんそのときは「意味」(あるいは「真理」)という概念の意味をかなり変えないといけないけど。

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私たちは自由に何でもやってるんだけど、でもそれはいつも必ず何かの規範や規則に従っている。熟練した音楽家のように。

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まず、社会的に決定されるということと、恣意的な政治によってどんなふうにでも決定できるということとは別のことである、ということがちゃんと言えるなら、たぶん上記の(1)のような考え方は成り立たなくなるだろう。

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(2)に関して何が言えるかは、今はちょっとまだわからない。

しかし、もし私たちが「解放的認識関心w」を持っていて、たとえば沖縄の集団自決について、それが真実であり、旧日本軍に相当の責任があるということを主張したいのなら、それは「公共の空間」で主張される必要がある。そうするとその「それがそうかどうかについての決定」は、通常の決定と同じ程度には、完全に普通の通常の世俗的な「社会的な手続きと相互作用」のなかにおいてなされなければならない。

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(別に左翼の業界に公共性がないとまで言いたいわけではない。)

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性暴力犯罪の裁判における被害者の扱われ方が参考になるかもしれない。顔をかくす、ついたてを立てる、ビデオで証言する、などなど。これは「当事者の語りをまるごと受け入れて共感する」ということからはほど遠いが、しかし「当事者に直接の傷を負わせないためにできることを何でもする」ということではある。世俗的ではあるが、だからといって効果がないということはないだろう。

そういえば「当事者の語りをどれくらい尊重したか」についての基準を作ろうと言い出したひとをまだ私は知らない。

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「公共の場での議論」にコミットする気なら、「当事者の思いにまるごと共感する」ことよりも、「いかに当事者の気持ちを直接傷つけずに公共の議論の場で勝利するか」を考えたほうがいいんじゃないかと思うけど、これってやっぱり乱暴なんだろうか。冷たい奴だと言われちゃうのかな。

でも、公共の場での議論を歴史修正主義にリードされて定義権を握られてしまったのが、ここ10年ぐらいに起きたことじゃなかっただろうか。特にネットでは。

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まあ(2)についてはちょっとあとで考えるとして、まず(1)について、「科学的に決定される」ことと「社会的に決定される」がそんなに違わないことを両方の意味で述べることが必要なのかな。両方っていうのは、「科学的なことは社会的ですよ」と、「社会的なことも(けっこう)科学的なんですよ」っていうことを両方っていう意味である。

あとはまあ、規範や規則に従った行為の話とか、あと何かな。要するに私は、「ちゃんと事実のレベルで争いましょうよ」ということを言いたいのだが、そのために何が必要なのかは、ちゃんと理論的な勉強をしたことがないのでぜんぜんわかりません! 以上です!

おぼえることと忘れること

数年前、大学んときのジャズ研の後輩のてっちゃん、超大手ゲーム会社でサウンドディレクターやったあといま東京で独立してばりばり仕事してる、ちなみに超イケメン、と一緒にバンドやってたとき、スタジオに向かう車のなかで小曽根真のソロピアノを二人で聴いてて、気持ち悪いぐらい上手いなこいつ。間違えたりせえへんのか?って聞いたら、自身もピアニストであるてっちゃんが「たぶん僕らのわからんレベルでたくさん間違えてると思いますよ」って言って、おおなるほどと思ったことがある。本人的には「あーここ間違えた」「失敗した」とかたくさん思っておられるんだろうけど、俺にそれを聞き取る能力がないっていうことだな。

ジャズっていうのは要するに「特定のコード進行の繰り返し」である。D・サドナウの本でもそんな記述があったと思うが(忘れたが。なかったかも)、よくやる曲のコード進行を何度も何度も練習していると、そのうちそのコード進行を「覚えこんで」しまって、個々のCm7だのE7+だのD∆7/F#だのというコードを意識せずにその音を出すようになる。

そのときに、演奏してる側の意識はどうなってるかというと、個々のコード進行の記号はもう頭に浮かばない。ただその音だけが浮かんでる感じになってる。

つまり、「ああ1小節目がCm7で次がF7、そのあとBbからEbに上がって、あとはGmに ll – V で下りていって」って思ってるうちはまだその曲を覚えてることにはならなくて、いま自分が弾いてる音だけが脳内に鳴ってる感じ。これ、誰が鳴らしてるのかほんとに不思議なんだけど。自分は受け身でそれを聴いてるっぽい。

あー俺はそこまでのレベルにはぜんぜん行ってませんよ、自分の乏しい経験から類推してるだけで。僕は慣れた曲でもよく間違えるし自分がいまどこにいるのか見失います。音楽的方向音痴。

まあでもさすがに「Fのブルース」とか枯れ葉とか、もう何万回もやった曲は、さすがに間違えなくなってます。完全に無意識でもちゃんとコードを追っている。

このへんの「間違えなくなる」っていうのは、もちろん完全にじゃないだろうけど、脳って面白いなあと思います。例えば、人の名前を言い間違ったりはみんなしょっちゅうあると思うけど、自分の名前を「うっかり言い間違える」ってことは極端に少ないと思う。

あるいは、「机」を指差して「アメリカ」って言い間違えたりはしないでしょ。通常の状態で「そこのアメリカの上にある俺のiPhoneとってー」と言い間違えるのはかなり考えにくい。もちろんなんらかの原因があってそうなる場合は別ですよ。

前に、あるプロのジャズミュージシャンの方とお話ししてるときに、プロの定義を聞いたら「間違えないこと」と仰っていた。

たぶん最初に書いたすごいレベルにまでいってる音楽家が、私らが気付くような間違いをほとんどめったにしないのは、要するにこの「わざとでないかぎり間違ったりしないようになっちゃうレベル」がものすごく高いっていうことなんだよな。ちょっと想像もつかんところのレベルで体で覚えこんでる。

「体で覚える」ってのも面白い表現だな。

そういえばこないだジャズ熱再発について書いたあと、どうしてもたまらんくなってYAMAHAのサイレントウッドベース買っちゃったんですが(笑)、もちろん毎日練習してもまだまだぜんぜん弾けませんけども、基本的なフォームやポジションは「体が覚えてる」。これはたぶん、ふだん自転車に乗らないひとでも子どものときに乗れていれば何十年したあとでも乗れちゃうのと同じだと思います。体で覚えている。

それで、ものすごく面白かったのが、数年前に学生つれて沖縄で調査実習をやったときに、沖縄の民謡歌手や舞踊家の方々にお話をお伺いしたんですが、そのなかで非常に有名な女性の琉球舞踊の方が、インタビューのなかで「半分は覚えるために練習し、残りの半分は忘れるために練習しています」と仰っていた。これ聞いて私はとても感動したのだが(学生さんたちはあんまりピンとこなかったみたいだけど(笑))、ジャズでも伝統文化でもみんな同じだな。スポーツや車の運転でも同じなのかな(俺にはまったく想像つかんけど)。

半分は覚えるために練習し、残りの半分は忘れるために練習する。

これがたぶん「体で覚える」っていうことなんだろうな。体で覚えてるっていうことは、頭では忘れてるっていうことだよね。コード進行でも言葉でも舞踊でも何でも、頭で覚えてるうちは間違う可能性があるんだけど、体で覚えてしまうと、もう意識的に間違えないかぎり「うっかり」間違ったりはしない。行為と規則が一体化してるっていうことかな。完全に自由にやっていてもちゃんと規則に従っている。