さて女は性悪だが男は空っぽのバカ、と、一言でいえばそうなるのではないかと、いつもここでも書いてますけども、こないだミナミをおさいと散歩してたときに、あのへんもタワーマンションとかできて人増えましたね、都心回帰ってええことですなあ、子どもがけっこうたくさんいたんですよ。わいわいと、子どもの群れが集団で小学校からにぎやかに帰っていくのをみるとなんかほっとしますが、もう男子がアホすぎて大笑いした。二人ぐらいで帰ってる男子が帰り道のすべての電柱と闘ってたりとか。「トウ!」「うりゃ!」とか言ってカサですべての電柱を殴ってる。たまに「うぎゃああ」とかいって、これは電柱に返り討ちにあっているらしい。あと、小さくなった制服をキツキツに来てるちょっと背の高い小学生が、野球のグローブかいうぐらいでかい手袋をして、その手袋はおそらくお気に入りで、似合うかどうかとかバランスがどうかとか無関係に手にはめてるんだろうけど、ひょっこひょっこ、ひょっこひょっこ、「首根っこをつかまれて無理矢理ひったてられる罪人」みたいな動き方で無言でひとりでひたすら歩いていて、あれはたぶん頭のなかは空っぽだ。自分が変な歩き方してるのも気付かないぐらい脳内の何かに夢中になってるんだ。かわいいなあガキどもは。男の子もかわいい。アホでかわいい。
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ちょっと前に書いたエントリがまたえらいブックマークやRTやReblogされて、久しぶりに1万人ぐらい来た。でもちょっと、「俺は俺」的な個人主義的な解釈されちゃって、いつものはてブに比べると格段にネガコメが少ない(笑)。これは何か誤解されているようだ(笑)。別に、俺は俺的な個人主義を否定するつもりはないけど、ちょっと書き方としては不十分であった。
いまの世の中って、ものすごく「内面」に介入したがる力と、ものすごく「内面」に介入することを禁止する力が、同時に働いてるなあと思うわけですよ。テレビとかマスコミの同化圧力。またぐらに手をつっこまれてかきまわされるような不快感を感じる。でもこっちが人のまたぐらに手をつっこみたくなることもある。いや比喩ですよ。たとえば児童虐待をどうするかって考えると、これはもう親権を制限するしかない。国家が家庭にずかずか入り込むわけです。
差別する傾向のある人は差別の存在を認めない傾向がある - Whoso is not expressly included (金明秀さんのブログ)
もう十分わかりやすいけど、もしもっと簡単に書くなら、「もし例年の大阪代表校への応援率っていうか支持率と比べて朝鮮高校が格段に低いとすれば、その差分は、差別意識から説明する以外にない」こんな感じになるかな。
でも、そうしても結局、「差別しないためには朝鮮高校を応援しなければならない」っていう話に、どうしてもなる。あるいは、他の高校とおなじくらいに朝鮮高校の支持率をあげることが、社会運動や政策の目標にならざるえをえない。これは不愉快に思う人が多いんちゃうかな。
朝鮮高校を応援しないひとりひとりの応援しない理由は様々で、なかには本当に差別意識を意識的にか無意識にか持ってて応援しない人もいるだろうし、朝鮮高校もほんとに応援したいけど他県代表の高校にちょっと縁があって(ヨメさんの出身校だとか)今回は悪いけど相手を応援するよ、っていう人もいるだろう。問題なのはどっちも朝鮮高校を応援しないっていう同じ現象として現れてくるっていうことだ。でもそれらは区別できないから、結局は例年よりも応援する人が少ないのはやっぱりその差分は差別者の割合を表してるってことだし、政策目標としては例年通り朝鮮高校を応援する人を増やしましょう、っていうことになる。そうすると、差別をなくすためには朝鮮高校を応援しましょう、応援しない人は差別者ですよって、どうしてもそうなるわな。
差別のことを考えていくと「俺は俺奴は奴」っていうドライな個人主義では終わらんところがあって(だってそれって、差別者がいちばんよく使う言い訳ですよ)、どうしても個人の内面に干渉せざるをえなくなってくる。たとえば同性愛者や性転換者に対する生理的嫌悪感は、そういう感情を持ってること自体が問題ですよって言うしかないんだけど、こう言われてなぜ違和感があるかというと、差別といわれて直接的な攻撃を想起するからで、忌避することも差別であることが理解されていないからだ。しかも、何もはっきりとした言動をしてなくて、ただ単にある種の感情を持っているだけで、それは差別ですよとか言われる。
表立って罵倒したりするのをやめなさい、という話は通じるけど、嫌いなものを好きになりなさい、と言われたら、たいていの人は引くだろ。本当は「嫌い」っていう感情なんか、簡単に変えられるんだけど。
上記の朝鮮高校の応援の例でいえば、「なにかをすることが差別ですよ」っていう主張を通り越して、「なにかをしないことが差別ですよ」という、改善するためにはより積極的で内面的なコミットが必要な何かになってるのである。なにかをすることが差別というのなら、そのなにかをすることをやめればそれでよい。でも、なにかをしないことが差別ですよって言われると、じゃあそのなにかをこれからしないといけなくなるわけで、これはかなり面倒だし大変だし、しかも感情的な領域になってくるとどうしても内面に干渉されることになって、反射的に不愉快になるのは、まあ自然な話だ。
それでここから話は大きく脱線していくんだけど、でもここで、忌避しないっていうことが、前のエントリで書いた、仲良くするっていうことと混同されるから、ものすごい感情的な反発が来るんだよな。でも別に当事者って言われてる人たち全員と親密な領域で仲良くせなあかんことなんてぜんぜんないですよ。下でも書きましたけども、当事者でも厄介な人多いですし、それが男性ならセクハラする奴もほんとに多いですよ。それは外の世界と変わりませんよ。でも、特別に仲良くする必要もないですが、忌避しちゃダメでしょう。ちゃんと付き合って、仲良くできる人なら仲良くして、喧嘩するならして、セクハラした人がいたら退場してもらうっていうのは、これは誰に対してもそうでしょう。
で、朝鮮高校の例に戻りますけども、これはほんとに理想ですが、朝鮮高校も差別せずにちゃんと地元代表として見る人ばっかりに、もしこの世界がなったとしたら、それは例年通りの応援率になるだろうから、やっぱりそういう状態をひとつの目標として立てるのは当然のことになって、だからみんなちゃんと応援しよう。
わかるかなあ。なんかややこしくなってきたな。話をいちばん最初に戻すと、「思いやり」っていう言葉で何を言うてるかっていうと、みんな仲良くしてるだけの美しい状態で、でもそれはたぶんフィクションで、「共に生きる」っていうのはたぶんそういう状態じゃない。でもやっぱり、仲良くする必要はないけど、「俺は俺」っていう態度も限界があって、やっぱりある程度は内面に踏み込まざるをえない。でもそれはやっぱり単に仲良くしろっていう話じゃない。別に俺は俺でいいわけですよ、例年通り朝鮮学校を応援する人が出てくれば。ぐるぐる、ぐるぐる。
まあ話は急にここで終わりますけども。いつも殴り書きみたいな文章で悪かった。それにしても、共生とか包摂っていう言葉もたいがい手垢まみれになってますけども、差別がない状態っていうのはどういう状態なのか、だれか考えてくれへんかな。賢い人。いや、実はすでにいろんな考え方があるんだけど、どうもどれもちょっとなあ。