なんか久しぶりに風邪ひいたっぽいけど、明日の授業とゼミはちゃんとやりますよ。
そうそう、明日は大学は授業日なんですよ。これもアレですよ、「単位の実質化」というわかったようなわからんようなスローガンのもとですすめられてる大学の「労働強化」(笑)の一環で、授業回数15回確保という、んじゃあ文科大臣名義で「大学の教員は調査研究に時間と労力を割かなくてよろしい」って名言してくんねーかな、というアレです。それで最近の大学は祝日も休めないんです。意外とみんな知らんみたいやけど、最近の大学はそうなってます。まあ授業やゼミは好きなんで実はぜんぜん苦になりませんけども。
今日は昼過ぎごろ京橋あたりを自転車でぶらぶらしました。ほんとさわやかな秋空の良い天気でしたなあ。
すいません以下は個人的なメモです。
さて商店街の話の続きだけど、これって例の
「私のしごと館」とすごい似てて、本来マクロにやった方がええことをミクロにやって失敗してるというか、ミクロな雇用対策はめちゃくちゃ必要なんだけど、それはまるで的外れなムダなものに終わりがちで、その極端な例が「私のしごと館」。
Job Job Worldとか、これいくらかけてんだろうとか、業者さんはいくら儲かったんだろうとか、見ててガックリします。
真っ当な職業訓練みたいなミクロな雇用対策が必要だっていうのはもう言うまでもありませんよ。ここ何度も言いますよ。
これに対して例えばマクロな経済成長政策とか、まあ理論的には正解なんでしょうけど、そんな2%インフレ誘導とか、絵に描いたみたいに上手いこといくんかいな、目の前の物価が上がるだけで終わりちゃうんか、と思いますけども、これに対してミクロな対策の方の問題は、どうしてそれはいつも的外れでムダなものになるんだろうっていうことをよく思う。
商店街に補助金出してシャッターに小学生の絵を描かせるとか、これってどっかの山奥にハコモノ作って中高生に職業教育(教育にすらなってない。職業「啓発」?)するのと、なんだかとてもよく似てる。啓発、という言葉で思い出したけど、人権啓発も、めちゃめちゃ大事だけど、めちゃめちゃ的外れでムダなことやってるときが、たまにある。
いやほんと、繰り返しますけども、ここで「商店街に活気を取り戻すためには補助金漬けにするだけのミクロな対策ではなく、インフレ誘導によるマクロな経済成長政策が必要である」とか言うともうそのへんのアレみたいでたいへん恥ずかしいので言いませんけども(しかし最近みんなインフレインフレ言うてるように思えるのはたぶん俺のネット世界が狭すぎるせいなんだろうけど、何の話しててもオチが経済成長になるのはちょっとさすがに飽きてきたなあ)、ちょっと上手いこと言えませんが、「ミクロな対策がものすごい的外れになるときがある」のは何故だろうと、よく考えるんですが、なんとなくイメージはわきますけど、うまく言葉にできない。
で、ここから商店街の話もマクロ経済学の話も終わりで、ぜんぜん話は変わりますが、
社会学のマクロとミクロって何だろうな、って、ずっと考えてるだけどぜんぜんわかんない。まあ、そういう問題の立て方が可能なら、の話ですが。昔はマクロが大きな社会構造でミクロは個人的な相互行為っていうかんじに大雑把に分けてたんだけど、なんか「規模の問題じゃなくね?」っていうことになって、結局よくわかんないまま。
たとえば、ジェンダー関係。そういえば台湾の本屋に行くとフェミニズムの本は「両性関係」っていうカテゴリーになってて、こっちの方がわかりやすいなあと思った。市民権というのもよくわからんけど、とりあえず労働や生活のいろんな局面で男女が平等になるにはどうしたらいいんだろうって考える。
例を極端に限定して、たとえば夫婦別姓とか共働きと家事の平等な分担がいつ実現するかっていうと、ひとつは経済全体、労働市場全体が変化して(「労働の女性化」っていう言葉がありますが)、正規雇用の男性の賃金が低下し、賃金は低いままで女性の労働力率が上昇すると、夫婦という制度がまだ残っているとすればそれは自然と賃金格差の少ないタイプの夫婦共働きになり、そうすると何もかも旦那に合わせる必要がなく、働いている途中で名字が変わるのもややこしい話なので、夫婦別姓でも不利益にならないような法制度への需要が高まる。これは個々の夫婦関係やジェンダー意識とは別の話。
もうひとつは、駅前なんかに「男女共同参画センター」みたいなハコモノをたくさん作って、そこでフェミニストの大学教授なんかを呼んで市民を集めて講演会するとか、あからさまに女性差別的な公の言動(政治家の発言とかテレビ番組とか広告とか)に対して抗議してやめさせるとか、そういう手段がある。
前者をマクロ社会学、後者をミクロ社会学と考えると、それは規模の問題ではなくなる(国家規模で男女共同参画なんちゃらをしてるわけだし)。
すいませんねえレベルの低い話で……
差別で考えてみると、たとえば部落差別がいちばん激しく出てくるのは結婚においてである。そうすると、差別の現状や、どうしたら差別を少なくすることができるかっていう問題を研究するには、二つのアプローチがあるということになる。
まず結婚自体がどうなっているかということである。社会全体が近代化すれば、ここでは省略するもろもろの複雑かつ深遠なプロセスを経て(笑)、アイデンティティや親密性のような社会的な領域でも流動性が高まり、結婚という制度自体が「イエ制度」から切り離されることによって消滅したり空洞化したりして、部落出身者との結婚に際してトラブルが生じる可能性が低くなる。ここで面白いのは、こうした現象は個々の行為者の意識や偏見には関わりがないということだ。たとえば齋藤直子という人が、まあこの人はたまたま私の同居人ですが、「結婚後差別」という現象について書いてますけども、部落出身者と一般地域出身者との「通婚」は増加している(というかもうほとんどがこのパターンだが)んだけど、結婚した後に親族などから差別的な言動をされるケースが非常に多い。つまり、もう「イエ制度」のタガがとっくに外れてしまっているために、愛し合っている個人と個人との結婚を、たとえそれが部落民だからといって反対する根拠も実効性もなくなっていて、これが通婚率の上昇を招いているのだけども、差別意識は残っているために、結婚した後に嫌がらせをされたりするのである。これは個々の当事者たちの意識や偏見を超えたところで起きている現象なのだ。従来の「結婚するのを反対される」という「結婚差別」もまだまだ残存しているが、むしろ結婚という行為選択が自由化されたために、「結婚した後で差別される」という「結婚後差別」が、新たな差別現象として増加した、ということなのである。
繰り返しますけども、「結婚後差別」という問題がなぜ生じているかというと、それは結婚という制度全体が、個人の差別意識や偏見を超えたレベルで激しく変動しているからなのである。
これ、逆に言うと、社会変化が個々の意識を超えて結婚差別を減少させている、ということだ。かわりに結婚後差別が増えるという結果になってるんだけど、いちおう通婚自体は増えている、というか、すでに主流になっている。
さて、もうひとつは、個々の結婚差別がどうやって生まれてどうやって乗り越えられていくか、というのはまあ、規模からいってもミクロなんですが、もっと「大規模なミクロ」(妙な表現だが)があって、やっぱりここでも啓発やなそれ。関西だといろんなところでポスターになってたりイベントがおこなわれたり企業研修があったりとか。
もう疲れてきたのでこのへんでいきなりですが終わります。ここでいう「ミクロ」っていうのは、何て言うか、規模の問題じゃなくて、「相手の意志に訴えるかどうか」やな。それが国家レベルの政策として実行されるときもある、と。コミュニケーションを前提とするかどうか、ていうか。呼びかけて、考え直させる。意識に訴えかけて、意識を変える。説得する。
ところでコミュニケーションって上手い下手があるよな。
なんか一昔前のミヤダイみたいな話になってしもた。