ここんとこずっとそれなりに忙しく(いや外資系とかマスコミほどじゃないですが)、本来の研究テーマである沖縄やら差別やら以外はおろそかになってしまい、摂食障害の業界からも遠ざかっていた。
摂食障害の業界から遠ざかっていたのはもうひとつ理由があって、そこがあまりにも「癒し」と「スピリチュアル」な文化に染まっていたからだ。最初はこういうのも必要なもんなんかと思ってたけど、あまりにあまりだったのでそのうち違和感を感じるようになった。違和感っていうか、腹立たしさというか。
パステルカラーの癒し文化に完全に占拠された摂食障害の業界では、皮肉にも当事者主権を訴える医者が大きな権力を握り、それに群がる癒し商売の業者がぼろ儲けをしている。必死になっている当事者や、それとおなじぐらい必死になっているその親たちにつけこんで、いつのまにか「業界」というものができあがっているのだ。
かなりあしょっぷのような良心的な自助グループも存在するのだが、ちょっとずつ関わっているうちに業界全体に強い違和感を抱くようになり、調査や研究がしんどくなって、自然と遠のいてしまった。
という業界の全体像を俺に教えてくれたのが、この人。
ぷにっき
前の方をちょっとずつ読んでいくとわかりますが、癒し文化と闘う摂食障害研究者っていうか活動家っていうか。抵抗するかなりあちゃん。大阪市大のマスターをこの春修了。
ついに修論が完成! さっそく読ませてもらった。
文章もぎこちないし分量も少ないし調査も不十分だし、理論的考察や先行研究のレビューも足らんし、何より話があっちこっちいって飛躍しまくってたけど、何より面白かった。昔から感動すると爆笑する妙な癖があるのだが、たとえばショスタコーヴィッチのバイオリン協奏曲1番とかチェロ協奏曲1番なんかゲラゲラ笑いながらでないと聴けないんですが、この修論も仕事帰りのJRの中でゲラゲラ笑いながら読んだ。さいきんはどうもアレだ、プロの学者が書いたものよりも、学生の卒論とかこういう修論とかの方が勉強になってるような気がする。いやほんと、こういう荒削りだが社会学的アイディアに満ちあふれたテクストを誰よりも先に読めるというのは幸せな体験である。
「詳しく書くな!」って言われてるから簡単にご紹介。一言でいえば、上で書いたような摂食障害業界が抱える問題点を厳しく批判したのがこの修論だ。なんでここまで強烈に批判するのかっていうのは、外から見てる人にはよくわかんないかもしれない。ちょっとググればなんとなく雰囲気はわかると思いますが。
摂食障害の先行研究をレビューしながら、
・ジェンダーの視点はあるが階級の視点がない。実際にアンケート調査したところ、6割以上が不安定就労層。今後は摂食障害と貧困との問題について議論が必要。
・先行研究はどれも「回復モデル」を提示しているが、それは危険。
ということを主張。
前者の点については残念ながら指摘しただけで終わってしまって、議論がぜんぜん発展してないけど、面白かったのは後者の点。
著者は、(俺もついついやってしまっていた)摂食障害の研究における「回復プロセスのモデル化」というもの自体を強烈に批判する。それは「回復のイデオロギー」なのである。
どういうことか。以下は俺の(創造的(笑))解説。
回復という概念がどうしてイデオロギーとして働くかというと、そもそもその実体が存在しないからだ。摂食障害という「病」は、精神的な病気として捉えられているが、その原因も治療法も存在しない。それどころか、食事行動の異常という以外にこの「病」の典型的な症状像さえまだ確立していないのである。
こういう状況においては、「回復とは何か」「どうすれば回復できるのか」と問いかけた瞬間に、どう言うたらええかな、ある種の「社会学的トラップ」にはまりこんでしまうのである。
回復というものは、そもそも問うまでもない自明なものであるべきだ。誰も風邪について、何が回復か、どういう状態になれば回復したのかと問う人はいない。でも、摂食障害では、まさしくこのことがおこなわれている。医学がまったく役に立たないのである。
さて。それについて問う、ということは、誰かがそれを定義しなければならない事態になる、ということである。
もう少し正確にいうと、さまざまなプレイヤーが回復の定義というゲームに参加するようになる、ということかもしれない。
そうしたゲームのフィールドでは、回復の定義は誰もができることではないから、必然的に権力を握るものが定義をおこなうことになる。そうするとどうなるかというと、とりあえず現時点で最も大きな権力を持っている医者が、摂食障害からの回復を自分の都合のいいように解釈し放題になる。治療というものも同じように何でもありになってくるから、東洋医学や代替医療、はては怪しげな癒し系セラピーやらスピリチュアルなんとかみたいなものがセットになってくる。
そして、こういう「薄められた医療」は、皮肉なことに当事者主権やコミュニケーションの重視、あるいは「近代医学に対する批判」(笑)みたいなものと仲良く手を取り合っていることさえある。摂食障害の治療は「全体的」(ホーリスティック?)なものであって、患者をメスで切り刻むような近代主義医学とは違いますよ、というわけだ。なんか知らんけどいつもこれを「全体主義」と読み間違えるんだけど(笑)。
ここから、「治らないことも回復のプロセスの一部」のような馬鹿げた話が出てくるわけだ。こういうナラティブは、ちょっと検索すればいくらでも出てくる。もはや摂食障害の業界ではスタンダードな解釈になりつつある。
たとえば、なかなか回復しないと、「今のあなたには(食行動の異常は)必要なプロセスなんですよ」とか言われる。つまり、摂食障害は「自己」の何らかの障害だと考えられているのだが、その自己が成長なり回復なりする過程において、拒食や過食が「必要」な通過地点だとされてしまうのである。もしこの考え方が正しいとすると、治っても回復、治らなくても回復ということになり、どっちにしても医者は自分たちの権威を守ることができる。ここでは「医療過誤」「医療ミス」というものははじめから存在しないのである。
あるいは、摂食障害を「コミュニケーション上の障害」と捉えてしまうと、治らないからといって医者に対して抵抗すると、「他者に対する信頼が足りない」という症状の一部として解釈されてしまう。「それだけ他者(この場合は要するに医者だが)を信頼できないから、いつまでたっても摂食障害が治らないんですよ」と言われてしまうのである。
ていうか、医者が当事者にむかって公の場でこれと同じことを発言する現場を俺自身何度も見た。たとえば被差別部落民に「差別に対して怒ったりするから、よけい差別されるんですよ」と、公の場で市長なり知事が発言している、という場面を想像してほしい。現実社会だったらまず一発でアウトだが、摂食障害の業界では不思議とこういうことを言うと「あの方は良いお医者さん」と言われてしまう。
回復がこのように広く定義されてしてしまうと、もう権力に対抗する手段はない。われわれが医療に対して抵抗できるのは、治らなかったとき、つまり支出に見合うサービスが得られなかったときだが、治っても治らなくても回復とされてしまうと、われわれの側から医療を批判することは原理的にできなくなるのである。
そのうえ、こうした広すぎる回復の定義は万能であって、たとえば治らないことを患者のせいにすることもできる。このときに、上記の「薄められた医療」は、一見すると当事者主権やコミュニケーションの重視のような口当たりのよいことを主張してるんだけど、いったん患者が抵抗してくれば、すぐさま「だからあなたは治らないのよ」と反撃してくるのだ。摂食障害の医療が当事者主権やコミュニケーションの重要さを声高に主張するのは何も当事者のことを思ってのことではなく、医療に当事者を参加させることによって患者に連帯責任を押し付ける、医者にとってはまことに都合のよいことなのだ。最初から権力の範囲が限定されていないのである。
ていうか医者嫌いが症状だっていうんならそれも治せ(笑)。
回復というイデオロギーは何も医者によって独占されているわけではなく、一般の自助グループにも浸透しているし、社会学者も往々にしてこういうことを言ってしまう。でも、もう長くなってきたのでこのへんの議論は端折りますが、回復のプロセスについてどういう言い方をしても、当事者にとってはある種の押しつけになってしまって、そうすると必死で回復を模索することが、なんか逆に重い負担になっちゃったりして、このへんはほんと難しいですな。でもそういうときに東洋医学とか安易に持ってくる医者が「無理に回復をめざしたらダメですよ」という命令を出したりして、もっすごいダブルバインドていうか、お前は禅か(笑)。医者が当事者に回復を目指すなとか言うて、訳わからんわ。
さてさて。以上のように、近代医学によって「病」として処理できない部分がどうしても残る摂食障害だが、そのことが医者の権力を限定するのではなく、むしろ逆に、症状や回復の定義を都合のよいように操作することによって医者の権力が無限定に強くなる。そしてこのことはもうひとつの帰結を生む。癒し業者とスピリチュアル業者による「摂食障害の商業化」「摂食障害ビジネスの誕生」である。
これは保健医療の自由化ともからむ問題なのだが(実際に俺は「中の人」から、摂食障害を診察する医療機関や関係業者の団体が必死に医療の自由化を要求しているということを聞いたことがある)、有効な治療法がまったく確立されていない状態でも医者が何らかの治療法を提示せざるをえないとき(それはそれで医者も可哀相だなあとは思うが)、代替医療はまことに都合の良い選択肢となりうる。実際に、全国規模でおこなわれる摂食障害のシンポジウムのロビーで、アロマだのレイキだのの癒し業者やスピリチュアル業者のブースが何百と設置されて、旺盛な商売をしているのを何度も見たことがある。
でもまあ、癒しやスピリチュアルに関しては、最近では細木も江原も叩かれているようであるし、そのうちマシな状態になると思いますけど、今でもけっこう怪しい業者が堂々とそういう場に食い込んだりはしてます。
全体として、回復の定義を握る医者には、少なくとも回復を目指す限りは絶対に抵抗できないようになっているし、家族との葛藤も治療プロセスのなかで儀式化されて「母親との対立は回復にとって必要な段階云々」みたいな言い方で毒を抜かれ、そこへ持ってきて(かなりあ以外の)一部の自助グループはミーティングにおけるコミュニケーションに様々な規制をかける(例えば「言いっぱなし聞きっぱなし」のルールなど)ことで多様性や翻訳不可能性や確執やトラブルに蓋をする。どうしても辛くて我慢できなくなっても、それは「まだあなたの『自己』が傷ついているからですよ云々」とか言われて、アロマセラピーに連れていかれて「さあここでいい匂いでも嗅いで我慢してね」。親はそれぐらいで治るんなら、と100万単位のカネを出す。
すげえよな、カウンセリングとか診察とか自助グループとか、当事者の話を聞く体制がこれだけできあがっているのに(笑)。
しかしアレだな、この話してるとキリがないっていうか、次から次にいろんなネタが出てくるなあ。例えば「摂食障害の女性は豊かな家庭の美人が多い」という都市伝説。なんか劇団とかやってる精神科医が新書で堂々とこれを書いてるのをみてガックリきたことがありますが、美人かどうかはおいといて(笑)、豊かな家庭が多いようにみえてるのは、まともな治療法がないのに医者や業者に言われるままにカネを払うことができるのがそもそも豊かな家庭の娘でしかないからだ、ということが、何でわからんのかね? この修論のアンケート結果からみても、貧困層がけっこう含まれてるんだけど、そこを治療しても儲からんから、そもそも目にも入らないんだろうか。
ということだ。いやしかし過激な修論であった。面白かったぞ、よく書いたな。
まあ、実は俺の感想というか不満というか批判はたくさんある。たとえば回復という概念をイデオロギーとしてまるごと批判しちゃうと、そのあといろいろしんどいぞ、とか。あと、権力に抵抗する必然性というかその効用もよくわからん、実は。ただ、「なんかあんまり好ましくないことが現場で起こっているんだなあ」ということは、これ読めば想像できる。
しかし一番の問題は、こういう過激な議論は、回復を目指して必死になっている当事者から最も抵抗されるんだろうなあということですな。このへんのことは自分でも自助グループなどを運営している著者さんはいちばんよくわかってると思うんだけど。
えーとこれ出版するべきだと思うんですが、どうですかね、出版社の方。さいきんスピリチュアルとかよく批判されてるし、それと摂食障害とつなげて、医療システムの矛盾を批判するとかって、うけると思うんですが、どうですか。
ちなみに著者は、さいきんプレカリアート論で有名になって現代思想やインパクションでよく登場している櫻田和也氏の配偶者でもある。いま「日本で一番面白い夫婦」かもしれない。