えーと某所で見つけて、「面白かったからソシログからリンクしていい?」って聞いたら、「ややこしくなるとややこしいからイヤ。でも匿名で勝手に転載するのはご自由にどうぞ」とのことでしたので、匿名で勝手に転載します。もし問題があったら言うてください>中の人
くりかえしますが、以下は私が訳したものではありません。訳した人になにか言いたいとか連絡したいとか間違いを指摘したいとかいう人はわたしにメールください。
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ドーキンスのインタビュー
--進化論が再び攻撃されています。進化論というのはそもそも有効なのでしょうか。疑問の余地というのはあるのでしょうか。
進化は過去に起こったことだから、それが起こったところを見ることができない。だから進化の直接の証拠がない、とよく言われます。これはもちろんナンセンスです。犯行現場という犯行がすでに行われてしまった場所に、探偵が後からやってきて、残された証拠を見ながら起こったに違いないことを明らかにしていくという作業に、進化というものは似ています。進化の物語に関して言えばそういう証拠は何億とあります。
動物や植物が残した DNA の配列や、たんぱく質の配列、形態的特長などはいたるところにあり、証拠となっています。こうした証拠は詳しく分析されてきました。それら全てが枝分かれした木のように進化という概念に合致しています。世界中の島々や大陸に分布する種の分布は、進化論が正しいと認めたときに考えられるものときれいに重なります。何百万という事実が同じ方向を向いており、別の方向を向いているものは一つもありません。
これは有名な話ですが、イギリスの科学者J.B.S.ホールデンが、進化に対する反証にはどのようなものがあるのか質問されたときに、「先カンブリア期のウサギの化石だ」と言っています。もちろんそんなものが見つかったことはありません。進化はそうした事実からは反証されるでしょう。しかし発見された化石は全て進化の道筋に見合ったものになっています。もちろん化石にはミッシングリンクがたくさんあります。しかし何も問題はありません。なぜあるべきものがないのでしょうか? そもそも化石があるということが幸運なのだということです。しかし進化という事実を否定するような間違った場所で化石は見つかりません。進化は事実なのです。
--しかし非常に多くの人々が進化を信じたいとは思っていないようです。どうしてなのでしょうか?
残念ながら、それは宗教のせいです。とくに「悪い」宗教のせいです。洗練され、教育された神学者から進化論に反する意見を聞くことはないでしょう。そうした考えは非常に退廃した、原始的な宗教から来ているのです。こうした宗教は残念ながら現在疫病のようにアメリカで蔓延しています。ヨーロッパやイギリスではそんなことはないのですが、アメリカではそうなのです。
アメリカの友人たちは、神権的な暗黒時代に滑り落ちようとしている、と語っています。これは教育を受け、知的で正しい考え方をする非常に多くのアメリカ人にとってはとても賛成しがたいことです。残念ながら、現在はブッシュに投票するような無知で教育のない人々のほうが数で勝っています。
しかし歴史を広く見渡せば、歴史は啓蒙に向かっています。ですからアメリカが今向かおうとしている方向は一時的な逆行であったということが証明されるでしょう。私は未来に大きな期待をよせています。私からのアドバイスは、絶望するな、そうした考えは忘れ去られる、ということになるでしょうか。
--あなたは不可知論について、「祖先の物語」で徹底的に掘り下げていますが、これは無神論とどう違うのでしょうか?
合理的な立場は不可知論以外にないといえます。超自然的な創造者というものを証明することも反証することもできないからです。不可知論はしかし弱い立場にいます。何についてもその不在を証明することはできませんが、確率や価値付けを行うことはできます。不在証明ができないものは無限にあります。ユニコーン、狼男、火星を公転するティーポット。でもそういったものが存在したとしても、何らかのよい意味が引き出せないのであれば、そんなことに注意を向けはしないのです。
--というと、神を信じるのは火星のティーポットを信じるのと同じことだと?
そうです。長い間、全ての人々にとって、世界が美しくエレガントなのは神聖な創造者を考える上で明らかな証拠だったようです。しかし哲学者のデイヴィッド・ヒュームはすでに3世紀前にこれがうまい主張ではないということを理解していました。この理論は無限に後退できるからです。これは誰かにデザインされたものに違いない、と言うことで、生命といった自然発生しそうにないことを統計的に説明することが不可能だとします。しかしそこにはデザイナーを説明する必要が出てきます。このデザイナーは誰であれ、生命よりもずっとあり得なさそうですし、エレガントな存在に違いありません。ですからデザイン論というのは究極的な説明としてはあり得ないのです。これは近接的な説明としてだけあり得るのです。飛行機や車はデザイナーによって説明できます。しかしこれはデザイナー自身が、自然淘汰によって説明されているからなのです。
--「インテリジェント・デザイン」、すなわち生き物は自然だけで創造されたというには複雑すぎるという考えを支持する人々は、進化は神の存在と矛盾しない、といっていますが?
神の存在を証明できる証拠は何もありません。自然淘汰による進化は単純なスタートから始まるプロセスです。そして単純なスタートというのは説明が容易なのです。エンジニアにしろ、他の生き物にしろ、そうしたものは説明するのが難しいのですが、自然淘汰による進化という観点からは説明可能です。ですから無神論と進化生物学との関連性は、一見するとデザインされたように見える、という幻想が現実性を持ってしまうようなメカニズムについて、進化生物学だけが解明できているということにあります。
--ではなぜ我々は神への信仰を強要するのでしょうか
生物学的な観点から言えば、超自然的な事物を信仰してしまう非常に強い傾向を人間は備えているということを説明する理論は多くあります、。一つ言っておきたいのは、子供の心というのは、非常にいい意味でダーウィン主義的な理由から、コンピュータがウイルスに感染してしまうように脆弱なのです。コンピュータはプログラム可能で、命令であればなんでも従うから便利なわけですが、このことは必然的にコンピュータがウイルスに対して脆弱であることも意味します。ウイルスは「広め、コピーし、ほかのコンピュータに渡して行け」という命令を伝えるプログラムですが、こうしたウイルス的なプログラムが発動してしまうと、それを止めることはできなくなります。
同じように、子供の脳は自然淘汰によって予めプログラムが書かれており、両親やほかの大人がやれと言ったことに従い信じるようになっています。子供の脳が脆弱で、大人から何をすべきか、何を信じるべきかを教えられやすいというのは、普通はよいことです。しかしこのことは必然的に、悪くて意味のない、時間の無駄なだけの概念、たとえば雨乞いの踊りのような宗教的慣習が、世代を超えて受け継がれていってしまうという負の側面を持っています。子供の脳はこうしたことに感染してしまうくらい弱いものなのです。そしてカリスマ的な伝道者がまだ感染していなかった人々に伝え回れば、交差感染により水平方向にも広がってしまいます。
--宗教的な伝統に基づいて子供を育てるのはある種の虐待であるということですか。
私が虐待かもしれないと考えているのはカトリックの子供、とかイスラム教の子供、というように子供を宗教的に区別することです。4歳のカトリック教徒の子供、だとか、イスラム教の子供という風に話すことに問題を感じられていない、ということに違和感を感じます。こうした子供たちは幼すぎて宇宙や生命、死についてよくわかっていないのにもかかわらず、宗教的に区別されているわけですから。ケインズ主義の子供、とかマルクス主義の子供という風には言いませんよね。でもなぜかわかりませんが宗教に関しては例外なのです。それからこれは余談ですが、無神論の子供、というのも虐待になるだろうと思っています。
--現在「The God Delusion (神の妄想)」という名の本を執筆中ですが、これについて教えてもらえますか。
妄想というのは全く証拠がないのに何かを信じ込むということです。宗教は「空想の友達」とかベッドの下にいる鬼のような子供の妄想とほとんど区別できません。残念ながら神の妄想は大人が関わっていますし、それは不幸な精神病院にいる少数の人々ではないのです。「妄想」という言葉には否定的な意味合いも含まれていますが、宗教にはそうした意味合いがたくさんあるのです。
--否定的な意味合いというのはどのようなものですか?
証拠がないのに信仰を促そうとすれば、トラブルがついてきます。両立できない信仰と信仰の間には見解の相違がありますが、これは理性に基づく主張からは解決できません。理性的な主張というのは、宗教的教育を受けた人々からは幼い時期に追いはらわれてしまっているからです。こうした見解の相違は他の手段で解決されることになります。この手段は、最悪の場合必然的に暴力を伴うでしょう。科学者にも見解の不一致はありますが、だからといって殴りあうようなことはしません。証拠に基づいて議論し、また新たな証拠を見つけ出すからです。哲学者、歴史家、文芸批評家についても同じことが言えます。
しかしある人が聖なる書物が神によって書かれた真実であるとしか知らず、他の人がそれとは両立しえないものを経典としているときには、こういうことは起こりません。信仰と個人的な啓示によって育てられた人は自分の心を変えうる証拠があっても説得されないのです。狂信的な人々が拷問と処刑、十字軍やジハード、聖戦、追放、虐殺、異端審問、魔女狩りを冒してきたことは、歴史を見ても明らかです。
--今日の宗教における負の側面というのは何でしょうか?
中東のテロリズム、シオニズムに基づく軍事作戦、9・11、北アイルランド問題、ユーゴでの虐殺、これは「文化的虐殺」でもあったことが明らかになっています。それからアメリカの科学教育の崩壊、サウジ、アフガニスタン、それにローマ教会での女性の抑圧。ローマでは睾丸がないと神父になれません。
--50年前に、バートランド・ラッセルのような哲学者たちは科学と理性の発展により宗教的世界観は後退していくだろう、と感じていました。どうしてそうなっていないのでしょうか?
実はヨーロッパやイギリスでは啓蒙が進んでいます。アメリカとイスラム世界で起こっていないのです。神権政治が急成長しているアメリカと、イスラム世界の神権政治が手を結ぶというなんとも不浄な関係が見られます。彼らは同じ戦いをしています。キリスト教徒が一方にいて、他方にはイスラム教徒がいるというわけです。そうした世界観を持たないアメリカやヨーロッパにいる大多数の人々がその間に置かれてしまっています。
この関係は聖なる同盟といったほうが適切かもしれません。ブッシュとビンラディンは本当に同じ位置にいます。理性と議論に反対する信仰と暴力の立場です。ブッシュもビンラディンも、自分たちが正しくて相手が悪である、という和解しえない信念を持っています。どちらも自分が死ぬときは天国にいけると信じています。どちらも相手を殺すことが出来ればより簡単にあの世の楽園に到達できると思っています。妄想的な「あの世」は両者にとって歓迎すべきものなのです。どちらもいなければこの世はもっとよくなると思うんですけどね。
--宗教はイスラム過激派やキリスト教過激派の暴力に寄与しているのでしょうか?
もちろんです。生まれたときから殉教者をまつりあげ、殉教者は天国へ近道でいけると言われて育ってきたのですから。母乳を吸うように、異教者、異端者への憎しみを吸いこんでいるのです。
教義論争があるから、兵士たちが殺戮を行うんだ、と言いたいのではありません。私が言いたいのは、北アイルランドのような地域では、宗教だけが、人間の弱みにつけこむことができ、味方でなければ敵だ、という戦争に人々を追いやってしまうのです。プロテスタント信者がカトリック信者を殺害する、あるいはその逆の場合でも、彼らはキリストの血と肉についての教義上の見解の相違があるからやりあっているというわけではないのです。
起こっているのはもっと個人的な復讐劇のようなものです。自分たちの地区の爺さんがやつらの地区の爺さんに殺された、だから自分たちは復讐する。しかしこの「やつらの地区」と「自分たちの地区」を区別するのは宗教だけなのです。世界にはそれが肌の色であったり、言語であったりする地域もあるかもしれませんが、多くの地域でそういうことは関係なく、宗教によって区別されるのです。クロアチア人とセルビア・ボスニア人との間の紛争でもこのことは事実です。この紛争はすべてラベルとしての宗教に関わるものでした。
インドの分離独立の際の忌々しい虐殺はヒンドゥー教徒とイスラム教徒の間で起こりました。ぱっと見ただけでは両者を区別できません。人種的には同じです。自分たちを「われわれ」とし、相手を「やつら」に区別できたのは、単に彼らがヒンドゥー教徒やイスラム教徒であったという事実からだけです。カシミール紛争のすべてはそういう単純なものです。ですから私は、宗教が極端に敵意をあおってしまうラベルである、という考えを貫き通したいと思っています。これはずっと今日まで事実であり続けています。