sociologbook

小ネタ

  • 2006.10.30 Monday 12:49
週刊ポストの回文がえらいことレベル高いことになってますな。

「私以前はタカ派だった。バカだ。反省したわ」





「政治家は無理、ムービースターは冗談」

  • 2006.10.28 Saturday 00:45
いやだから新庄の職業は「新庄」でええって。

記者会見すらないまま無数の人が球界やスポーツ界(あるいは学界も?)から消えて行くというのに、最高の舞台で引退したな、この人。かっこよかったなあ。野球のことはまったく知らんけど、この人だけは好きだったな。





旦那さんからのたってのお願い

  • 2006.10.26 Thursday 15:51
http://d.hatena.ne.jp/pakina/20061026

「またブーツ買ったんか!!」と叱ってやってください!!


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ドーキンスその他

  • 2006.10.24 Tuesday 16:56
http://d.hatena.ne.jp/korompa/

自分でカミングアウトしてるので公開。下のドーキンスのインタビューの翻訳者はこのひと。しかしこのひととも長い付き合い(十年ぐらい?)ですが会ったのは2回ぐらいで、ネットって面白いなあ。引越の時はお世話になりました。またお会いしましょう。


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頭わいとんか?

  • 2006.10.21 Saturday 22:47
http://www.zakzak.co.jp/top/2006_10/t2006102031.html

http://www.asahi.com/national/update/1020/NGY200610200005.html

教員は学生に手ぇ出してもええんか? ほんで、話がこじれたら首しめたり脅迫してもええんか? そんなことしてもまともな処分もでけへんねんやったら、誰が被害者のケアができるねん? 教員は何でもやりたい放題か?

そもそも私的領域って何やねんアホか? DVでも児童虐待でもセクハラでも、もっとも私的な領域でもっとも陰湿な暴力が起きうるっていうことは、もう常識ちゃうんか? そんなもん教員の権力の使いようで、最悪のセクハラでもなんぼでも「私的な恋愛関係」って言いくるめられてきた歴史があるのさえこの裁判官は知らんのかアホか? 私的な領域って誰がそれ定義するんや? 結局弱いもんは泣き寝入りか? 

こんな判決出して何考えてるんやアホかこいつ? これで全国で教員のセクハラが起きたときに大学側が処分に弱腰になったらどないして責任取るつもりなんや? 京大矢野事件以前の暗い時代にまた後戻りさす気か?

まあこうやって一進一退しながら世の中は進んでくわけだが、しかし全国の大学教員のみなさま、朗報ですよ! これからは学生に手ぇ出して首絞めたり家族殺すぞ言うて脅迫したりしてもおとがめなしだそうですよ! 最高裁まで行ってまえ!


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多様性三題

  • 2006.10.19 Thursday 19:44
性同一性障害:大阪の社福法人、障害理由に解雇 無効求め提訴

 体と心の性が一致しない性同一性障害(GID)を理由に解雇されたとして、社会福祉法人「大阪自彊(じきょう)館」(大阪市西成区)の契約職員だった男性(50)が11日、同法人に解雇無効の確認と慰謝料200万円などを求める訴訟を大阪地裁に起こした。代理人弁護士によると、GIDを巡り解雇無効を求める訴訟は全国的にもほとんど例がないという。/訴状などによると、男性は03年1月ごろから女性として生活。04年2月に医療機関でGIDと診断された。同年9月に同法人側の面接を受け、GIDであると明かしたうえで、野宿生活者巡回相談員として採用された。/しかし05年6月、上司が化粧と女子トイレの使用を禁止し、「野宿者からべっ視され、困る」と非難。同僚も「男か女かはっきりさせてほしい」「(野宿者との)面接の場を外してほしい」などと求めるようになった。そして今年3月、別の上司が理由も説明しないまま、半年ごとの契約を更新しないと通告した。……(毎日新聞 2006年10月12日 東京朝刊)



同性愛者の「結婚」も市長が祝福 大阪市が活性化戦略

 大阪市民であれば、ゲイやレズビアン同士の「結婚」を、市長が祝福します——大阪市は17日、街の活性化を目指す「創造都市戦略」骨子案を公表し、参考としてこんなプランを披露した。担当者は「議論はあるだろうが、多様性を許容するざっくばらんさが、大阪らしいのではないか」と話している。……同性愛者ら国内では法的に結婚できないカップルも対象。行政が多様な人の生き方を積極的に認めることで、「本当に人にやさしいまち大阪」を目指すという。( asahi.com 2006年10月18日08時07分)



「ダブルに男性同士」宿泊拒否ダメ 大阪市、ホテル指導

 ダブルの部屋に男性2人で宿泊するのを拒否したのは旅館業法(宿泊させる義務)違反にあたるとして、大阪市保健所が同市内のホテルに対し、営業改善を指導していたことが18日、わかった。宿泊を拒まれたのは22日に同市の御堂筋で開かれる同性愛など性的少数者らによる「関西レインボーパレード2006」に参加予定だった東京都内の教員の男性(26)で、「イベント開催地での宿泊拒否は納得いかない」と話している。……( asahi.com 2006年10月18日15時23分)





映画みたい

  • 2006.10.18 Wednesday 08:52
女性は家計に余裕がなかった。独力で闘うことを決意し、法律は書店での立ち読みや図書館通いで学んだ。各社へ返還請求書を送る切手代や、提訴に必要な印紙代も工面できない。小銭をためて金券ショップで切手を買い、配達証明郵便で請求書を発送した。
……
 訴訟は和解を含め連戦連勝。返還された金でパソコンを購入、インターネットで最高裁の判例などを調べ、法廷での主張に役立てた。約3年間、多い時は週3日、自転車で裁判所に通い詰めた。
……
 一連の訴訟の中では一度も出廷しない貸手の不誠実さや、請求額の一部で納得するよう迫る調停委員、女性が数千円の訴訟費用の返還にこだわる理由を理解しない裁判所に、怒りを感じたこともたびたびだった。
……
 「貸す側は1日も、1円も、返済をまけてくれなかった。だから、私は徹底的に争った。法律と無縁だった私にできたのだから、多重債務で悩む多くの人も勇気を出して、人生を取り戻してほしい」


すごい。

本人訴訟で過払い金取り返す 立ち読み、図書館で猛勉強


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加藤あい

  • 2006.10.17 Tuesday 11:27
katoai.jpg

袖振り合うも多生の縁より。

関係ないですがこのブログの人はすごいです。お読みいただけるとわかりますが、ハンパじゃないです。グルメ食べ歩きのブログはたくさんありましたが、「いちど喰ったものを完全にコピーする」のは初めてみた。しかも、「写真で見ただけの料理を勘でコピーする」というのまであります。天才か。


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ドーキンスの無神論 その2

  • 2006.10.13 Friday 07:14
昨日のエントリの続き。

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--宗教がなくなれば我々はどのように豊かになると思いますか?

一度しかない人生に全力で取り組むことができるようになるでしょう。それに我々が持っている特権を喜ぶことも自由にできるようになります。私たちがこの世に生を受けたという特権は、本当に幸運なことなのです。天文学的に圧倒的大多数の、生まれる可能性を持っていた人々は、生まれてこれなかったのです。私たちはそうした非常に少ない数の、試練をパスした人間なのです。生きていることに感謝し、来世があるんだという無意味で妄想的な欲望は捨て去りましょう。私たち全ての人間が今ここにある人生に対してそういった肯定的な姿勢を持てば、世界はもっとよくなると思います。それにモラルというのが、宗教のように病的にまでに[懺悔すれば許されるような類の]個人的な罪に強迫的であったり、性的な快楽が悪だと押し付けるようなものではなく、人に対して善をなし、人を傷つけない、というものであればいいと思います。

--宗教的世界観によって環境が影響されることはあるでしょうか?

宗教的な価値観では環境保護というのは科学者が考えているのと同じくらい重要であることが多いと思います。しかしそうでない宗教的価値観も存在します。そうした終末論的な宗教では信者は「世界は終わりに近づきつつある」などといった、黙示録に出てくるような酔っ払いの預言を読んで信じ込むわけです。そういう連中は、「世界の終わりが近づいているんだから、森林保護なんかにかまっていられない」と言うわけです。数十年前なら笑い飛ばしていればよかったのですが、今ではそうもいきません。彼らは権力を持つようになりました。

--他の進化を扱った本とは違って、「祖先の物語」は現在から始まり過去へさかのぼっていくというスタイルをとっています。どうしてこのように逆向きのストーリーを語ろうと思ったのでしょうか?

進化を順方向で進めていき、人間で終わるように語るというのは、私たちは自分たちに興味がありますから、人間としては自然です。しかしこれでは進化全体が人類に向かって進んでいった、と考えてしまいかねません。これはもちろん違うわけで、進化はカンガルーや、チョウチョウやカエルなどどんな方向にも進みうるのです。全ての生き物は差し当たり進化の道筋において、今現在その繁栄の頂点にいるわけです。

しかし逆向きに話をすすめれば、この巨大な生命の樹のどこからスタートするにせよ、どこかで一つにまとまるところに行き着くわけです。これが生命の起源です。私がこの本の構成したのはそういう理由です。どこからスタートしても、生命の起源という当然のゴールがある。そうすれば読者が興味を持っている人類からはじめていくのも正当にできるだろう、ということでした。

みんな自分の系譜を調べたいと思っています。家系についてのウェブサイトは、アダルトサイトには劣るかもしれませんが、人気のあるウェブサイトの一つです。祖先について、氏姓から調べていく場合には通常数百年で終わってしまいますが、私は40億年前までさかのぼってみたいと考えました。

ゴールへ向かってさかのぼっていく、というアイデアを考えたときに、私の頭に巡礼、という概念が文学的な装置として浮かびました。そこで非常にあいまいなのですが、チョーサーの「カンタベリー物語」をモデルにしました。そこでは巡礼者が集団で自分たちの祖先を探してさかのぼっていきます。私の本でも人類は順番に他の巡礼者たちと出会っていきます。チンパンジーに500万年前に、それからゴリラ、オランウータンという風に。人類からはじめていくと、そうした出会いはたったの39しかありません。これは驚くべきことではないかと思います。39番目の出会いは細菌の巡礼者になります。

--人々は進化が「ランダム」であるということをあまり好ましく思っていないようですが、本当にランダムなのでしょうか?

これはまったくの誤解です。もし進化がランダムなプロセスであれば、もちろん私たちの目の前にあるような素晴らしく複雑でエレガントである生命が誕生することなどあり得ないでしょう。自然淘汰は進化を進める重要な要素です。自然淘汰は私たちが想像できるくらい非ランダムなものな要素なのです。何らかのバリエーションがなければ自然淘汰は機能しません。このバリエーションを生み出すのが(突然)変異です。変異がランダムだ、というのはそれが改善に向かうかどうかはわからない、という意味においてだけです。自然淘汰によって、進化は改善の方向に向かっていきます。改善に向かっていないという意味で変異はランダムなのです。

進化それ自体がランダムなプロセスであるという考えは異常なまでにゆがんだ考えです。こうした考えは故意に歪められているのではないか、そうでなければ人々は純真にそうした非常識な世迷い言を信じているのだろうか、と思ったりします。進化はランダムではありません。自然淘汰という、全くランダムではない要素に動かされているものなのです。

--地球の生命誌を探求するという知的作業に、感動するような部分というのはあるでしょうか?

はい。私も強く感じます。自分は宗教的であると言っている科学者に詳しく話を聞けば、そう言うことで科学の感動的な側面を言いたいのだ、ということが多いと思います。「宗教的」という言葉が、超自然的ということを意味しない、と感じると思います。自分たちが描く自然の世界に対し、感情として反応するときにそういう言葉が使われます。アインシュタインはこうした感情をとても強く持っていました。残念ながら彼は「神」という言葉を使い、そのおかげで大きな誤解が生じてしまいました。しかしアインシュタインも私も、自然の驚異に対する感情としてそういうものを持っていますし、多くの科学者の著作にも見られるでしょう。それは宗教的な感覚に近いものです。その感覚を宗教的だと言いたい人もいますし、だから科学者が自分を無神論者だと言うの聞きたくない人もいます。そういう人たちは、「いや、そういう超越的な感覚を信じてるんだから、無神論者じゃないでしょう」と考えますが、これは用語の混乱があるんだと思います。

--宗教や神を生活から排除してしまえば、生きる意味がなくなってしまう、という科学者もいます。つまり生きる意味を与えてくれるものは神である、と。

「虹の解体」という本で私は唯物論的、機械論的、自然主義的な世界観が人生を無意味にしてしまうという考えに反論しています。こういう考えとは全く逆に、科学的世界観というのは詩的な世界観、ほとんど超越論的な世界観なのです。この世に生を受け、死んで永遠にいなくなってしまうまでの間に数十年生きられる、という驚くべき権利を私たちは有しています。その間に世界を理解し、感謝し、楽しむことができます。それに幸運にも現代に生きることの出来ている私たちは過去に生きた人々よりもさらによい立場にいます。私たちは過去の科学的な探求の恩恵を受けることが出来るのですから。自分自身に才能がなくても、過去の人々よりもずっと物事を知ることが出来ます。アリストテレスは現代の子供たちがしゃべる内容に感動してしまうことでしょう。これは現代に生きる私たちの特権です。そしてこのことが私に生きる意味をもたらします。私の人生には限りがあり、他の人生はないからこそ、毎朝起きて、自分が特権を持って生まれてこれたこの世界についてもっとよく知ろう、という作業に取りかかろうという気になるのです。

--人類はインテリジェント・デザインによって創造されたものではないかもしれませんが、遺伝子テクノロジーの発展により将来の人類がインテリジェント・デザインを自らの手で行えるようになるでしょう。このことは進化の未来についてどのような意味を持っているのでしょうか?
未来のある時点で、人々が20世紀や21世紀を回想して、進化の分岐点、つまり、進化が方向性を持つようになり、デザイン可能になった時代という風に見るかもしれないということは面白い考えだと思います。すでに過去数百年間の、もしかしらた数千年の間に、農業ではブタやウシやニワトリなどの家畜についてはある意味進化をデザインしてきたとも言えます。こうしたことはますます増えて言っていますし、技術的にも進歩しており、淘汰することによって進化をデザインするだけでなく、変異をコントロールすることで進化の方向性を決定できるようになってきています。進化は全く異なったものになるかもしれません。現在までの生物学的な進化の大きな特徴は、未来への見通しを持たないということでしたから。

通常、進化は盲目のプロセスです。私の本に「ブラインド・ウォッチメーカー」という題をつけたのもそういう理由です。進化は未来を見ることなどないのです。未来に何が起こるかを元にして今起こっていることを決めるということはないのです。これは人間がデザインするときとは全く異なっています。しかし今や新種のブタやニワトリを、思ったような品質で創り出すことが可能になりました。その過程でこのブタの血統のなかで、ベーコン肉を作るにはあまりよくないという状態の品種を作らないといけないかもしれません。しかし我々はそれをやり過ごすことができます。長い目で見れば価値が生まれることがわかっているからです。こうしたことは自然の進化過程では絶対に起こりません。「よくなるために今はちょっと悪くなってもいいか」とか、「対岸の山に登るために谷を下ろう」というようなことはあり得ないのです。ですから、進化がインテリジェント・デザインに突然変わりはじめた時代を私たちは生きているのだと言えるかもしれませんね。


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ドーキンスの無神論 その1

  • 2006.10.12 Thursday 22:23
えーと某所で見つけて、「面白かったからソシログからリンクしていい?」って聞いたら、「ややこしくなるとややこしいからイヤ。でも匿名で勝手に転載するのはご自由にどうぞ」とのことでしたので、匿名で勝手に転載します。もし問題があったら言うてください>中の人

くりかえしますが、以下は私が訳したものではありません。訳した人になにか言いたいとか連絡したいとか間違いを指摘したいとかいう人はわたしにメールください。

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ドーキンスのインタビュー

--進化論が再び攻撃されています。進化論というのはそもそも有効なのでしょうか。疑問の余地というのはあるのでしょうか。

進化は過去に起こったことだから、それが起こったところを見ることができない。だから進化の直接の証拠がない、とよく言われます。これはもちろんナンセンスです。犯行現場という犯行がすでに行われてしまった場所に、探偵が後からやってきて、残された証拠を見ながら起こったに違いないことを明らかにしていくという作業に、進化というものは似ています。進化の物語に関して言えばそういう証拠は何億とあります。

動物や植物が残した DNA の配列や、たんぱく質の配列、形態的特長などはいたるところにあり、証拠となっています。こうした証拠は詳しく分析されてきました。それら全てが枝分かれした木のように進化という概念に合致しています。世界中の島々や大陸に分布する種の分布は、進化論が正しいと認めたときに考えられるものときれいに重なります。何百万という事実が同じ方向を向いており、別の方向を向いているものは一つもありません。

これは有名な話ですが、イギリスの科学者J.B.S.ホールデンが、進化に対する反証にはどのようなものがあるのか質問されたときに、「先カンブリア期のウサギの化石だ」と言っています。もちろんそんなものが見つかったことはありません。進化はそうした事実からは反証されるでしょう。しかし発見された化石は全て進化の道筋に見合ったものになっています。もちろん化石にはミッシングリンクがたくさんあります。しかし何も問題はありません。なぜあるべきものがないのでしょうか? そもそも化石があるということが幸運なのだということです。しかし進化という事実を否定するような間違った場所で化石は見つかりません。進化は事実なのです。

--しかし非常に多くの人々が進化を信じたいとは思っていないようです。どうしてなのでしょうか?

残念ながら、それは宗教のせいです。とくに「悪い」宗教のせいです。洗練され、教育された神学者から進化論に反する意見を聞くことはないでしょう。そうした考えは非常に退廃した、原始的な宗教から来ているのです。こうした宗教は残念ながら現在疫病のようにアメリカで蔓延しています。ヨーロッパやイギリスではそんなことはないのですが、アメリカではそうなのです。

アメリカの友人たちは、神権的な暗黒時代に滑り落ちようとしている、と語っています。これは教育を受け、知的で正しい考え方をする非常に多くのアメリカ人にとってはとても賛成しがたいことです。残念ながら、現在はブッシュに投票するような無知で教育のない人々のほうが数で勝っています。

しかし歴史を広く見渡せば、歴史は啓蒙に向かっています。ですからアメリカが今向かおうとしている方向は一時的な逆行であったということが証明されるでしょう。私は未来に大きな期待をよせています。私からのアドバイスは、絶望するな、そうした考えは忘れ去られる、ということになるでしょうか。

--あなたは不可知論について、「祖先の物語」で徹底的に掘り下げていますが、これは無神論とどう違うのでしょうか?

合理的な立場は不可知論以外にないといえます。超自然的な創造者というものを証明することも反証することもできないからです。不可知論はしかし弱い立場にいます。何についてもその不在を証明することはできませんが、確率や価値付けを行うことはできます。不在証明ができないものは無限にあります。ユニコーン、狼男、火星を公転するティーポット。でもそういったものが存在したとしても、何らかのよい意味が引き出せないのであれば、そんなことに注意を向けはしないのです。

--というと、神を信じるのは火星のティーポットを信じるのと同じことだと?

そうです。長い間、全ての人々にとって、世界が美しくエレガントなのは神聖な創造者を考える上で明らかな証拠だったようです。しかし哲学者のデイヴィッド・ヒュームはすでに3世紀前にこれがうまい主張ではないということを理解していました。この理論は無限に後退できるからです。これは誰かにデザインされたものに違いない、と言うことで、生命といった自然発生しそうにないことを統計的に説明することが不可能だとします。しかしそこにはデザイナーを説明する必要が出てきます。このデザイナーは誰であれ、生命よりもずっとあり得なさそうですし、エレガントな存在に違いありません。ですからデザイン論というのは究極的な説明としてはあり得ないのです。これは近接的な説明としてだけあり得るのです。飛行機や車はデザイナーによって説明できます。しかしこれはデザイナー自身が、自然淘汰によって説明されているからなのです。

--「インテリジェント・デザイン」、すなわち生き物は自然だけで創造されたというには複雑すぎるという考えを支持する人々は、進化は神の存在と矛盾しない、といっていますが?

神の存在を証明できる証拠は何もありません。自然淘汰による進化は単純なスタートから始まるプロセスです。そして単純なスタートというのは説明が容易なのです。エンジニアにしろ、他の生き物にしろ、そうしたものは説明するのが難しいのですが、自然淘汰による進化という観点からは説明可能です。ですから無神論と進化生物学との関連性は、一見するとデザインされたように見える、という幻想が現実性を持ってしまうようなメカニズムについて、進化生物学だけが解明できているということにあります。

--ではなぜ我々は神への信仰を強要するのでしょうか

生物学的な観点から言えば、超自然的な事物を信仰してしまう非常に強い傾向を人間は備えているということを説明する理論は多くあります、。一つ言っておきたいのは、子供の心というのは、非常にいい意味でダーウィン主義的な理由から、コンピュータがウイルスに感染してしまうように脆弱なのです。コンピュータはプログラム可能で、命令であればなんでも従うから便利なわけですが、このことは必然的にコンピュータがウイルスに対して脆弱であることも意味します。ウイルスは「広め、コピーし、ほかのコンピュータに渡して行け」という命令を伝えるプログラムですが、こうしたウイルス的なプログラムが発動してしまうと、それを止めることはできなくなります。

同じように、子供の脳は自然淘汰によって予めプログラムが書かれており、両親やほかの大人がやれと言ったことに従い信じるようになっています。子供の脳が脆弱で、大人から何をすべきか、何を信じるべきかを教えられやすいというのは、普通はよいことです。しかしこのことは必然的に、悪くて意味のない、時間の無駄なだけの概念、たとえば雨乞いの踊りのような宗教的慣習が、世代を超えて受け継がれていってしまうという負の側面を持っています。子供の脳はこうしたことに感染してしまうくらい弱いものなのです。そしてカリスマ的な伝道者がまだ感染していなかった人々に伝え回れば、交差感染により水平方向にも広がってしまいます。

--宗教的な伝統に基づいて子供を育てるのはある種の虐待であるということですか。

私が虐待かもしれないと考えているのはカトリックの子供、とかイスラム教の子供、というように子供を宗教的に区別することです。4歳のカトリック教徒の子供、だとか、イスラム教の子供という風に話すことに問題を感じられていない、ということに違和感を感じます。こうした子供たちは幼すぎて宇宙や生命、死についてよくわかっていないのにもかかわらず、宗教的に区別されているわけですから。ケインズ主義の子供、とかマルクス主義の子供という風には言いませんよね。でもなぜかわかりませんが宗教に関しては例外なのです。それからこれは余談ですが、無神論の子供、というのも虐待になるだろうと思っています。

--現在「The God Delusion (神の妄想)」という名の本を執筆中ですが、これについて教えてもらえますか。

妄想というのは全く証拠がないのに何かを信じ込むということです。宗教は「空想の友達」とかベッドの下にいる鬼のような子供の妄想とほとんど区別できません。残念ながら神の妄想は大人が関わっていますし、それは不幸な精神病院にいる少数の人々ではないのです。「妄想」という言葉には否定的な意味合いも含まれていますが、宗教にはそうした意味合いがたくさんあるのです。

--否定的な意味合いというのはどのようなものですか?

証拠がないのに信仰を促そうとすれば、トラブルがついてきます。両立できない信仰と信仰の間には見解の相違がありますが、これは理性に基づく主張からは解決できません。理性的な主張というのは、宗教的教育を受けた人々からは幼い時期に追いはらわれてしまっているからです。こうした見解の相違は他の手段で解決されることになります。この手段は、最悪の場合必然的に暴力を伴うでしょう。科学者にも見解の不一致はありますが、だからといって殴りあうようなことはしません。証拠に基づいて議論し、また新たな証拠を見つけ出すからです。哲学者、歴史家、文芸批評家についても同じことが言えます。

しかしある人が聖なる書物が神によって書かれた真実であるとしか知らず、他の人がそれとは両立しえないものを経典としているときには、こういうことは起こりません。信仰と個人的な啓示によって育てられた人は自分の心を変えうる証拠があっても説得されないのです。狂信的な人々が拷問と処刑、十字軍やジハード、聖戦、追放、虐殺、異端審問、魔女狩りを冒してきたことは、歴史を見ても明らかです。

--今日の宗教における負の側面というのは何でしょうか?

中東のテロリズム、シオニズムに基づく軍事作戦、9・11、北アイルランド問題、ユーゴでの虐殺、これは「文化的虐殺」でもあったことが明らかになっています。それからアメリカの科学教育の崩壊、サウジ、アフガニスタン、それにローマ教会での女性の抑圧。ローマでは睾丸がないと神父になれません。

--50年前に、バートランド・ラッセルのような哲学者たちは科学と理性の発展により宗教的世界観は後退していくだろう、と感じていました。どうしてそうなっていないのでしょうか?

実はヨーロッパやイギリスでは啓蒙が進んでいます。アメリカとイスラム世界で起こっていないのです。神権政治が急成長しているアメリカと、イスラム世界の神権政治が手を結ぶというなんとも不浄な関係が見られます。彼らは同じ戦いをしています。キリスト教徒が一方にいて、他方にはイスラム教徒がいるというわけです。そうした世界観を持たないアメリカやヨーロッパにいる大多数の人々がその間に置かれてしまっています。

この関係は聖なる同盟といったほうが適切かもしれません。ブッシュとビンラディンは本当に同じ位置にいます。理性と議論に反対する信仰と暴力の立場です。ブッシュもビンラディンも、自分たちが正しくて相手が悪である、という和解しえない信念を持っています。どちらも自分が死ぬときは天国にいけると信じています。どちらも相手を殺すことが出来ればより簡単にあの世の楽園に到達できると思っています。妄想的な「あの世」は両者にとって歓迎すべきものなのです。どちらもいなければこの世はもっとよくなると思うんですけどね。

--宗教はイスラム過激派やキリスト教過激派の暴力に寄与しているのでしょうか?

もちろんです。生まれたときから殉教者をまつりあげ、殉教者は天国へ近道でいけると言われて育ってきたのですから。母乳を吸うように、異教者、異端者への憎しみを吸いこんでいるのです。

教義論争があるから、兵士たちが殺戮を行うんだ、と言いたいのではありません。私が言いたいのは、北アイルランドのような地域では、宗教だけが、人間の弱みにつけこむことができ、味方でなければ敵だ、という戦争に人々を追いやってしまうのです。プロテスタント信者がカトリック信者を殺害する、あるいはその逆の場合でも、彼らはキリストの血と肉についての教義上の見解の相違があるからやりあっているというわけではないのです。

起こっているのはもっと個人的な復讐劇のようなものです。自分たちの地区の爺さんがやつらの地区の爺さんに殺された、だから自分たちは復讐する。しかしこの「やつらの地区」と「自分たちの地区」を区別するのは宗教だけなのです。世界にはそれが肌の色であったり、言語であったりする地域もあるかもしれませんが、多くの地域でそういうことは関係なく、宗教によって区別されるのです。クロアチア人とセルビア・ボスニア人との間の紛争でもこのことは事実です。この紛争はすべてラベルとしての宗教に関わるものでした。

インドの分離独立の際の忌々しい虐殺はヒンドゥー教徒とイスラム教徒の間で起こりました。ぱっと見ただけでは両者を区別できません。人種的には同じです。自分たちを「われわれ」とし、相手を「やつら」に区別できたのは、単に彼らがヒンドゥー教徒やイスラム教徒であったという事実からだけです。カシミール紛争のすべてはそういう単純なものです。ですから私は、宗教が極端に敵意をあおってしまうラベルである、という考えを貫き通したいと思っています。これはずっと今日まで事実であり続けています。


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中性の濃硫酸

  • 2006.10.10 Tuesday 10:48
http://d.hatena.ne.jp/boiledema/20061009

これ誰?


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なぜ日本人は英語ができないのか

  • 2006.10.09 Monday 23:13
いや日本人は他の国民に比べてヨユーで英語できると思いますが、まあ国民の半分がいちおう大学に進学することとか考えると、もうすこし英語できてもいいかもしれません。ちなみにぼくはぜんぜんできません。とくにみんな発音には自信ないんちゃう?

ここで仮に「日本人は英語できない」っていう俗説がある程度根拠のあるものとして、ていうか正しくいいかえると「日本人はもう少し英語できててもおかしくない、とくに発音」ってことになるかもしれませんが、その理由はさて何でしょう。

それは下位文化のせいです。

むかし若い頃、仕送りも途絶え大学院にさえ入れなくて日雇いの建築労働者を数年間、ええと涙でモニターが見えないので話を変えますが、その他に塾の講師のバイトも長いことしてまして。都島ってとこですが。

そこで、ある年に帰国子女っていうんですか、こういう表現で正しいのか? アメリカで小さい頃からずっと暮らしててさいきん日本に帰ってきた中学生女子が塾に入ってきたんですよ。

とうぜんのことながら発音はネイティブですよ。まあほんまにネイティブの人からしたら日本人的な訛りがあるんだろうけど、とにかく俺なんかぜんぜん発音も何もできないくせに英語教えてたんですよ。相手中学生やし、どうせ受験英語やし。

で、あんまりその子が発音うまいから、授業中にけっこうよく当ててホメたりして、おれ発音できへんでごめんなあ、とか言いながら授業やってたわけ。こっちとしては、せっかく身につけたその能力は大事にしてほしかったんですよ。

それで数ヶ月ぐらい経ったときかなあ、とつぜんその子がバリバリの日本人英語の発音になっていったんですよ。

あれれれ、おまえ何しゃべってんの、せっかくネイティブの発音身につけたのに、もったいない、なんて言うたら、その子は笑って、岸先生の変な発音のせいや、もう英語忘れたわ、って言うてたんですが。

よく考えたらあの子、自分のネイティブっぽい発音が恥ずかしかったんちゃうかな。

だって日本の中学校ですよ。中学校ってどんな世界かといえば、まあみなさんも少し思い出してみるとわかるでしょ。そういう雰囲気のところでネイティブっぽい英語しゃべるのって、たしかにものっすご勇気要るわな。んで特に大阪ですよ。

そらあなた、「中学校的雰囲気」のなかで、トマトのこと「トメイトーゥ」とか、ポテトのこと「ポテイトーゥ」とか、タマゴのこと「タメイゴーゥ」とか言えないでしょ。

なんか、ちゃんとした英語的発音や身振り手振りって、「中学校的雰囲気」のなかでは、いちばん笑いもんにされそうじゃないですか。

このようにしてわれわれは、中学校のクラスの下位文化にがんじがらめになって、せっかく身につけたネイティブの発音も捨てざるをえないのである。

だから、日本人が英語できないのは、べつに日本語の文法のせいでもないし、日本の伝統文化のせいでもないし、ましてや人種的問題でもないし、ただ単に、中学校の教室のなかで笑い者になりたくないから、お互いに英語ができなくなるように足をひっぱりあっているわけなんですよ。

なんかこう、英会話ができるっていうことがむちゃくちゃカッコイイことになってるのと、英語っぽい発音や身振り手振りをすることがむちゃくちゃ気恥ずかしいことになってるっていうのは、同じことなんだよな。

だから何。


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ガラクタと空っぽと感情と人間関係

  • 2006.10.09 Monday 03:51
さいきん友人の女子が詩を書き出して、新しいのができるとウチに持ってくる。いやしかしほんと、もし友だちに「詩を書いたから読んで」って言われたらどう思うかっていうと、大変しんどい。どうせ大した詩じゃないし、でも正直なとこ言うと関係壊れるし、困ったな、というところでしょう。嫌だよな、素人の友だちが書いた詩なんて。だいたい今どき詩て。詩て。

いやそれがものすご予想外なことに、彼女の詩には、この方面にたいへん疎い私ではあるが、心から感動してしまいまして。これはひょっとして大変な才能なのではないかと。そのうち出版してほしい。編集者の方、だれかいちど読んでみませんか。丁稚どんとかどうですか。いや無理にとは申しません。

さて、この詩の話はまたいずれ詳しく書きますが、今日はそうじゃなくて、こないだ彼女としゃべってて思ったことなんですが、男の内面は空っぽなんじゃないかと。いきなりですが。

彼女は詳しい話は聞いてへんけどウチではいろいろしんどかったみたいで、子どものときはたいそうストレスの多い生活だったそうだ。で、そうやっていろいろしんどい時に何を考えていたかというと、「大人になった自分が助けにきてくれる」ところを想像していたそうだ。

なんて詩的なイメージなんだろうかと驚いた。いや詩的っていうと大げさなんですが。

子どものときに何考えてた? 

ガキの頃のおれはしんどいときに「大人になった自分が……」なんてことは考えずに、「サイボーグになって敵をやっつける」とか「中国の奥地でカンフーの必殺技を習得して敵をやっつける」とか「宇宙人が(以下省略)」とか、そんなことしか想像しなかったよ。「敵」って何だよ「敵」って。

いやこれでも本人はマジでしんどいのよ。でも頭の中のイメージがそんなんしかないのよ。また、そんなことにしか興味わかないし。

さいとうが、安野モヨコが連載してるからいうて、ときどき何とかいう雑誌買ってくるんやけど、小学生女子が読む雑誌なんですが、それ読んでびっくり。小学生の女子が読むマンガって、どんなんかご存知ですか。けっこうエッチなシーンもあったり、ドロドロの人間関係があったり、日常的なストレスやしんどいことがいっぱい描かれてますよ。

ふりかえって男子はどんなマンガ読んでるかっていうと、今はどうか知らんけど、今はどうなってるんかな。でもドラゴンボールとかだよな。敵が出てきた!やっつけた!もっと強い敵が出てきた!やっつけた!いっかい負けた!ふっかつした!さいきょうの敵が出てきた!やっつけた!……

いやもちろん女子でもドラゴンボール好きな人はいるけどね。

今でも人間関係というものがほとんど理解できないんですが、いやほんとつくづくガキのころの身の回り考えてみるとガラクタばっかりだったな。なんであんなにガラクタばっかり詰め込んでたんだろうか。

男の内面が空っぽというのは言い過ぎなんですが、男の中身って何だろうって最近よく考える。いや別に男に限った話じゃないので、まあ人間の「中身」って何だろうなあ。人格とか性格とかそういう意味じゃなくて、もっと単純に、人間って中に何が入ってるんだ? 人間の中身って何や? 

片岡聰の『石喰う男』を読んで以来いろいろ考えてたんですが、どうも「『中身』とは何か」という問題に行き着くような気がするんですが、この作品はみんな知ってるのかな。絶版になったらしくてアマゾンでもリンクできないんですがね。マガジンハウスから10年ほど前に出版されたマンガです。

これ傑作ですよ。

実はこの方はさいとうの大学時代のゼミの同級生だった人で、それでさいとうがこの本を持ってて、勧められて読んだんですが、え〜〜友だちが描いたマンガってどうせ大したことない……と思って読んでびっくりびっくり、腰ぬかして驚いた、面白くて。え〜〜何で!? 何でもっと売れてへんの!!??

で、何が言いたかったかというと、やっと二冊目が出た。



後輩のYくんは いつも何かと戦っている
「今の奴ら3人おったけど勝てますよ 2人ピアスしてたでしょ
あれ同時にひきちぎって ほんで顔面ヒザげりして……」
ピアスの人が攻撃してきたわけでもないのに
いつも そんなことを考えている


二年ほど前から私の左の手のひらは
阪神タイガース元監督の
星野仙一に似ていると思っているのだが
人に言うと困惑されたり
なぜか心配されたりするので黙っている


たとえばサッカーボールを持って歩く小学生を見ると私は
「ああこの子は今からサッカーをしに行こうと思ってるんだな」と
思うやいなや
なぜか胸がいっぱいになって泣けて泣けて
どうしようもなくなる時がある
どうも「思う」ということに弱いらしい


ほんの一部分だけ引用したのだが、他にもっと面白いネタがいっぱいある。もちろんこれだけ抜き出して読んでもまったく意味がわからんだろうからぜひ買ってください。たまたまちょっと暗い感じのネタばかり引用しちゃったけど、「普通に」面白いギャグもたくさんあって、ほんとに飽きない一冊だった。

いろんなパターンの笑いを追求してるんですが、おれが好きなのはたった一人で作り上げた独自のルールに無意味にがんじがらめになっている姿を描いてるやつとか、抽象化された他者の存在にふと出会って驚くやつとか。いやもちろん、普通のアホな面白い話もいっぱい入ってますよ。

ここには物語化され美化された人間関係はないし、恋愛や葛藤のディテールもないし、そういう何ていうか、きれいにまとまった人生のサブカテゴリーはいっさい存在しない。ただ、めちゃくちゃにリアルで断片的な、「ちょっとしたしょうもない話」があるだけなんだけど、これがまためちゃくちゃに面白い。

もちろん、大人になった自分に助けてもらう、というイメージとか、複雑な感情や人間関係とかも、それはそれで人生の重要な要素です。

でも、自分自身で作った奇妙なルールに支配される矛盾とか、咄嗟の場面でまったく無意味な行動をとってしまう恥ずかしさとか、噛み合ない会話のほんの些細な気まずさとか、真剣にしんどい時にガラクタにすがるバカさかげんとか、自分で孤独だと気づかないくらい深い孤独とか、ひょっとして人間の中身って、半分はこういうものでできてるんじゃないか?

こういう、ガラクタがいっぱいつまった人間の中身をカラスヤサトシが描くと、たんなる私小説的ギャグマンガの枠をはるかに超える、なにか新しい詩的イメージに満ちた、寂しくて悲しいがとても美しい作品になるのだ。

だから、カラスヤサトシ(片岡聰)は、人間の(あるいは男の)内面を描く作家である。

いちばん上で書いた友だちの詩は、複雑な感情や人間関係や精神の暗さを(淡々と、だけど)見事に描いていて、だからカラスヤさんの作品と合わせて読んだら、人間の内面や中身の幅の広さに頭がクラクラした。どっちも美しい。





Free Hugs

  • 2006.10.07 Saturday 10:17
「フリーハグ」ようでけた話。最後は警官とも(笑)

http://www.youtube.com/watch?v=vr3x_RRJdd4

ちょっぴり泣いた。


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一時間経過。

  • 2006.10.02 Monday 19:45
とりあえず元のソシログ風になってきましたが、もうちゃんといじってるヒマがないんでもうこのへんでええわ!このへんで許したるわ!!

右側にメニューが表示されない人はOSとブラウザを教えてくださいますまいか!! よろしくお願いしますですよ!


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ダサダサや……

  • 2006.10.02 Monday 12:52
じっくりスタイルシートをいじってるヒマがないので、タダで配布してたもんを適当に使用。こんなデザイン嫌や……(涙)

いかがでしょうか、右側にメニューが表示されましたでしょうか。





大ショック

  • 2006.10.02 Monday 07:52
このページ、MacOSX + Safari の環境でしかチェックしてなかったんやけど、ある方面から「おはきなページ見れません」と苦情が!! んで、MacOSX の MSIE で見たらレイアウトがぐちゃぐちゃに!!!!!!!

いままでこんなページを世間様にさらしてたんや!!!! ものすごいショックだ!!!! しかも今日は一日授業なので直せない!!!!

あいかわらず生き恥さらしてますよ!!!!

はやく何とかしなきゃ!!!!


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クリック注意

  • 2006.10.01 Sunday 19:47
精神的ブラクラ。クリックしたら死にます。「きゅ〜〜」とかなります。未成年の人は見ちゃだめ!!

http://ic36.mixi.jp/photo/bbs/96/62/9739662_43.jpg

みくしのポメラニアンコミュより勝手にリンク。