鈴木涼美『「AV女優」の社会学──なぜ彼女たちは饒舌に自らを語るのか』書評

私たちはジェンダーやセクシュアリティに関する話が好きだ。とくにセックスワーカーや風俗嬢などに関する噂話が大好きだ。なかでも、そういう仕事をなぜ好んでしているのか、どういうきっかけでその仕事に入ってきたのか、あるいは、そういう仕事に就くような女の子は、どういう家族構成で、どういう暮らしをしていたのか、という、動機や原因を探るような話が大好きである。

しかし、おそらく、セックスワーカーに関するこういう話し方は、彼女たちをなにか逸脱したもの、規範から外れたもの、おおげさにいえば「異常」なものとして扱ってしまうことになる。

本書の筆者にとって、序文にも書かれているとおり、風俗やキャバクラ、そしてAVの世界は身近な世界だった。だから、筆者はそういう場所にいる女性たちを、なにか私たちと異なるものとして描きたくなかったのだろう。

性を売る女性たちのなかでもAV女優はとくに、動機や原因を語る圧力につねにさらされている。そしてそういう圧力は、彼女たちを異物化する圧力とおなじである。もし社会学者がAV女優を調査するときに、おなじことを聞いてしまったら、世の中の、彼女たちを異物化しようとする力と共犯者になってしまうだろう。

だから、筆者はAV女優のことを本に書くときに、なぜAV女優になったのか、という問いかけを封じた。そこからいったん距離をおき、とにかく私たちが一切知らないこと、つまり、AVの業界や撮影現場や取材現場などで何が起きているか、彼女たちはそういう場で、どう行動し、なにを語っているか、ということを描こうとした。

筆者は、AV女優の労働現場での語りを分析する際に、「面接とインタビューの場で自分をどう語るか」に焦点を合わせた。これは素晴らしい着眼点だと思う。同時に、彼女たちに直接インタビューし、自分たちをどう語るかについても耳を傾けた。

結果として、非常に興味ぶかい、考えさせられる、おもしろいエスノグラフィーになった。私たちは本書を通じて、あるひとがひとりのAV女優になっていくプロセスに触れることができるし、業界や撮影の現場がどのように構造化されていて、どのような規範が作動しているかについて、多くを知ることができる。

私が面白いと思ったのは、まず、AV女優のキャリアを積んでいって、その場に慣れ親しんだプロになる過程がある一方で、歳をとったり飽きられたりして、その価値が下がっていく過程が、同時に進んでいることだ。これによって、AV女優たちの戦略は複雑になる。

例えば、若さと美貌で売り出した女優が、やがて仕事が減り、企画AV女優になっていくと、自らを売り出す必要性から、プロダクションや制作会社にむけて自分のキャラをはっきり打ち出していくことになる。業者や監督との面接のなかで、彼女たちは、「ロリ巨乳」とか「淫乱な痴女」のようなよくある物語を組み合わせて自己をつくりあげていく。また、彼女たちは、はじめに書いたような世の中の圧力のなかで、動機についても語らされる。

おそらくこれは、AV女優にだけ特別なことなのではない。そもそも私たちの自己というものは、雑多な物語の寄せ集めである。自己が物語を語るというよりも、物語があつまって「ひとつの」自己があるようにみせかけているのだ。

そして、筆者の分析はもうひとつ先へ進む。こうして集められた語りは、やがて自己を追い越していく。キャラを売り込むために組み合わせた物語だったはずのものを、自ら内面化していくのである。

自分を売り込む必要性から、自分のキャラや動機の物語について何度も語っているうちに、その物語を自ら信じ込み、思い込むようになる。こうして、たとえば「セックスが好きで仕方なくて、そしてそれが上手になりたくてこの仕事をはじめた」という物語を何度も語っているうちに、「そう考えるのもアリかな」と、自らの内在的な動機として再構成していくのである。

そして、私が次に面白いと思ったのは、彼女たちに語らせる場の構造や規範についての描写だ。AV女優は、さきほども書いたように、一方で、加齢や飽きられることで価値が下がっていくが、他方で、キャリアを積むことで業界のなかではベテランになっていく。このふたつの圧力が同時に働くことで、たとえば撮影現場での差異化のゲームが非常に複雑になる。つまり、若さや外見で勝負できなくなっていても、過激なシーンをこなしたり、スタッフとのあいだで円滑なコミュニケーションをすることによって、自らを差異化/価値付けすることができるのである。

「若くて可愛くてギャラも高い新人女優が撮影現場で居場所なさそうにしていて、ギャラの安いベテラン女優がスタッフと打ち解けて話したり、てきぱきと仕事をこなしたりしている」という語りに、私はうならされた。こういう場面って、いろんなところで見るよね。

こうした場の構造や規範は、本書ではそれほど強調されないけども、実は私が個人的にいちばん面白いなと思ったのはここだ。ひとつの撮影現場で、複数のルールが同時に走っていて、差異化/価値付けのやりかたも複数ある。若さや新鮮さで勝負できなくても、仕事ぶりや顔の広さ、場に慣れ親しんだ感覚などで勝負すればよい。

おそらくAVの現場には、こうした小さな「勝ち負け」が、たくさんあるのだろう。自分の価値が加齢などで失われていっても、まだ他のやり方で承認を得ることもできるし、居場所をつくることもできる。

筆者は、こうしてその場の小さな勝ち負けを通じてこの世界に埋め込まれていく女性たちを「中毒(ホリック)」と表現している。この言葉が良いかどうかはよくわからないが、これは実は「なぜ彼女たちはこの仕事を続けているのか」という問いに対する、筆者なりの回答になっているのだ。

本書は実は、自らが避けた「なぜそんなにしんどいことを、自ら好んでしているのか」という世の中の問いに対する、筆者なりのひとつの回答に、結果的になっているのである。(そこまで意図していたかどうかはわからないが。)

性を売る現場に限らず、「なぜそんなにしんどい場所にずっといるのだろう」ということが、社会学のなかで問題とされることがある。労働者階級出身の子どもたちが、自ら好き好んで労働者の仕事の世界に再び入っていく物語を描いたP. ウィリスの『ハマータウンの野郎ども』もそのひとつだろう。最近の例でいえば、丸山里美の力作『女性ホームレスとして生きる』にも、公園での暮らしを「良いもの」として語るホームレスの女性の語りが出てくる。

AV女優たちは、こうした複数の差異化のゲームに埋め込まれながら、果てしなく自己について語り、そして語りを内面化し、自己をふたたび作り直していく。鈴木涼美がAV女優たちの語りを通じて描いたのは、こうした、自己についての普遍的な物語である。

そして、こうした普遍的な物語を描くことができたのも、はじめに彼女たちのきっかけや動機、原因を、虐待や貧困などの生活史や家族史のなかにもとめる世の中の視線から、いったん距離を置いたからだろう。

もちろん、虐待や貧困を通じてセックスワークに入っていく女性たちを描く必要がなくなった、ということでは決してないだろう。それはそれで別の研究によって追求すればよい。たとえば荻上チキの『彼女たちの売春(ワリキリ)』は、その膨大なデータと見事な分析で、セックスワークと貧困との問題を考えるうえで必読の作品になっている。

だから、別に、社会学者でも誰でも、AV女優たちに動機を聞く、ということ自体に、それほど禁欲的になる必要はないと思う。そういう視点から、新たな物語を描くことは可能だし、必要なことだろう。

しかし本書に限っていえば、その秀逸な問題設定によって、まったく新しい世界を広げることに成功していると思う。

それにしても筆者の筆力には驚かされる。本書全体のなかでAV女優の語りが直接出てくるところはそれほど多くない。実は、本書の大半の部分を、筆者自らが描く「場の構造と規範」が占めているのだ。それは、多くのものがまったく知らないことについて説明しなければならない、という課題のせいでもあるのだが、撮影現場を生き生きと描く筆者の描写力は、正直すごい! と思った。

ひとつだけダメ出しをしようと思う。筆者は東京のことを「この街」「私が育ったこの街」「私が暮らしたこの街」とか言う。これは別に、普通に「東京」って言えばいいやん、と思った(地方在住者)。

ひさしぶりにめっちゃ面白いエスノグラフィ読んだ。書評っていうより、内容の要約になってしもた。

あと、関係ないけど、帯の小熊英二の「汚れる前の魂」ってどうなん。「汚れる」て。

『「AV女優」の社会学──なぜ彼女たちは饒舌に自らを語るのか』
鈴木涼美 、2013、青土社

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