ジャズ再開

みくしで書いたんだけどこっちにも書く。いつにもまして個人的な話。

いろんなひとと出会ったり別れたりするのが人生で、「さよならだけが人生だ」という言葉もありますが、「はじめまして」や「さいきんしょっちゅう会うよね」や「やあ、久しぶり。元気?」という人生もあります。

幼稚園ぐらいの頃からエレクトーンやったりギターやったりしてはすぐやめちゃって、音感が悪いのはその頃からわかってたんですが、中学生のときにエレキベースを初めて高校のときはもうロックバンド一色の3年間で、おかげでせっかく進学校に入ったのに卒業時には学年で下から3番目という成績だった。大学に入ってすぐウッドベースを買ってジャズを始めて、2回生ぐらいからギャラを貰って演奏するようになり、卒業するころにはけっこうそれでメシ食うっていうと大袈裟だけど月10万ぐらいの稼ぎにはなっていた。練習ばっかりして大学の授業もほとんど出たことがないので、いまだに自分の授業のやり方がこれで合ってるのかどうかわからんわ。

ただ、最初にウッドベースを習った北川潔という偉大な師匠に比べると自分の音楽の才能の無さはどうしようもなく、早々に見切りをつけて大学院に入ることに決めたんだけど、その頃に一緒によく演奏していたのがピアノのSさんで、大阪の若手では一番好きなピアニストだった。ピッチも悪くて下手糞な俺をなぜか気に入ってよくブッキングしてくれたのがうれしくて、いまはなきDonShopとかでしょっちゅうやってたな。音楽のこともいろいろ教えてもらっていた。

ある日、いつものようにSさんから電話があって、新しい店でハコ(レギュラー)で入ってくれっていうオファーだったんだけど、学者を目指して大学院に入ります、でもジャズは続けたいので、ハコの仕事はできませんが、トラ(誰かの替わり)の仕事があったら回してくれませんかって言ったらえらい叱られて、アホか学者になろうと決めたんだったらベースなんかしてたらあかんやろ。音楽やめてちゃんと勉強に専念しろやって叱られた。いちおう学部生のときからジャズと並行して院への進学も考えていろいろ読み漁っていたので、そのペースで音楽も続けられると思っていたんだけど、なんかハッとして、ウッドベースを後輩に売り払って仕事としては辞めちゃった。そしてそれ以来Sさんとも連絡を取ることもなく、もう一生二度と会わへんやろなと思っていた。もちろんその他の関西のジャズ関係の人ともすっぱり縁が切れてしまった。

でも音楽をまったく止めることはできなかったので、ひとりで完結できるボサノバに転向してギターを細々と今でもやってるけど、どうしても最近ジャズへの回帰の念が抑えきれなくなってきて、去年だったか、ちょっとしたあぶく銭が入ったときにひっさびさにエレベ買ってひとりでちまちま弾いてたんだけど、こないだ那覇でいつもお世話になっているカマンタさんの演奏に(泥酔して)乱入したときに予想外にお褒めいただいて調子に乗ってしまい(その節はありがとうございました)、昔の仲間と大阪でスタジオに入ったりしていたのだが、家の近所のジャズのライブハウスの情報を検索していて見つけたのがSさんの名前。

おさいも誘ったんだけど風邪ひいてたのでひとりで行ってきた。20年ぐらいぶりにSさんのピアノ聴いた。あいかわらず素晴らしいピアノだった。

最初は話しかける勇気がぜんぜんなかったんだけど、聴きながらひとりでぐいぐい酒飲んで、酔っぱらって思い切って話しかけてみたら、20年ぶりだったのに俺のことをちゃんと覚えていてほんとにほんとに驚いた。ちなみに上記の説教は覚えていなかった(笑)。

ちょっとスティーブ・キューンがもっと渋くなったような、あいかわらず素敵なピアノだった。しかも俺と会ったことを後日ブログにも書いてくれてて、うれしいなあ。

というわけでウッドベースを再開しようかなどとアホなことを考えていて、5月末の某店のジャムセッションの日に乱入しようなどと、ヤバいなこれますます仕事できねーわ。

しかし20代でいろんなことやってたのがいま全部つながってきたなあ。

で、まあ、結局最初の受験で落ちたり、あとその後も博士課程に進むときに教授が亡くなったりして建築労働者に……。合計して4年ぐらいドカタの時代を経ているわけですが、そんときの経験を書いた論文が『ソシオロジ』に載ったけど、しかし寄り道と遠回りばっかりしてるな俺。

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