謎のおっさんのフーガ

俺の友人の父親だが、許可を得ないまま勝手に書きますが、ときどき失踪するおっさんがいて、半年ぶりに帰ってきたときには奥歯がぜんぶなくなってて、魚のさばき方が異常に上手くなっていたらしい。

この話をきいて爆笑してしまったのだが、いったい何をしていたのだろうか。マグロ漁船かな……あと、このおっさん時々失踪するんだが、大阪の中央卸売り市場で働いているらしいとか、犬を飼ってるらしいとか、断片的に伝わってくる情報が面白すぎて、いつもわくわくしながら聞いている。もちろんご家族のみなさんはご苦労されていることだろうが、幸いいまのところ経済的にしんどいということはなく、父親なしでもちゃんと家計が成り立っているということなので、改めてそういう立場におかれた母親のたくましさと、「謎のおっさん」というものの存在のおかしさについてしみじみしている。

新婚時代は住吉区という、大阪の南の外れの住宅地に住んでいた。ここに小さな小さな居酒屋があって、一階は5人もすわればいっぱいのカウンターだけだったんだけど、しょっちゅう通って、二階の6畳2間ぐらいのスペースでよくみんなで宴会していた。3000円でフルコース飲み放題、酒とビールは二階の冷蔵庫から勝手に出して飲んでもよくて、飯は安くて量がいっぱいで旨いという、この上なく素晴らしい居酒屋だったのだが、後からよく聞いたらそのスペースは普通にその店のおっさんとおばちゃんが寝るスペースだったらしい。12時を過ぎてもわいわい飲んでるとたまに「そろそろ眠いから帰れ!」と言われることがあったが、そうだったのか……。

店を切り盛りしてたのは60歳ぐらいの夫婦だったが、料理を作ったり仕入れをしたり帳簿を付けたりするのは全部おばちゃんの方がやってて、おっさんは何もせず、ただ料理を二階に運んだり、客と一緒に飲んだくれたりしていた。そしてあるとき突然、このおっさんがいなくなったのである。

俺の記憶だとまず最初にいなくなったのはおばちゃんの方で、おばちゃんがいないときに飲み会をしたときの、おっさんが用意した料理がひどすぎて、でもいつも良心的な経営をしていることは常連の俺たちはよく知ってたから、爆笑しながら「炒めただけのウィンナー」とか「ぐちゃぐちゃの卵焼き」とかを楽しんでいた。そして後日、そのうちおばちゃんが復活したと思ったらこんどはおっさんがいなくなった。

おっさんがいなくなった店はいつもの安くて旨い店に戻って、二階で飲んでるときに料理を下まで取りにいかなきゃいけなくなった以外に以前と変わりはなく、いかにあのおっさんがこの店の経営に貢献していなかったかを改めて思い知ったわけだが、驚いたのはこの夫婦、実は夫婦でも何でもなく、あのおっさんも夫でも何でもなく、数年前にふらりとどこかから現れてあの店の二階に住みつき、おばちゃんの仕事を手伝って養ってもらいながら暮らしていた、という事実だった。後から聞いたんだけど、ほんとにびっくりした。

おっさんは、数年前に自転車でどこからともなく現れて、店に居着き、そして数年後、また自転車にのってどこへともなく消えてしまったのであった。

その店はこないだきれいに改装して、今もまだ営業してるけど、まだ同じおばちゃんがやってるかどうか知らない。もうあの店に行くこと自体なくなってしまった。

その他、おさいの友人の父親も失踪癖があったりとか、あと西原理恵子の亡くなった元旦那も子どものころからどこかへ行っちゃう癖があったりとか、まあいろんなところでこういう「謎のおっさん」の同じ話をよく聞く。

沖縄でもよく聞くわ……だいたい女がそのあと居酒屋とかスナックとか開いて、女手一つで子どもを育てて、いつか男が帰ってくるのを待ってるとか、そういう話はほんとうによく聞く。

精神医学の領域で「解離性遁走」という症状があるらしいのだが、これだと精神的外傷からのがれるために記憶ごとなくしてどっかへ行っちゃうというもので、たぶんこういう「謎のおっさん」たちとは違うと思うね! 謎のおっさんがどうしてどっかへ行っちゃうかっていうと、それはたぶん「飽きたから」だと思うよ!

あと、数年前に卒業した学生が書いた卒論で、ホームレスを経験した生活保護の中高年男性に聞き取りをしたものがあって、それはとてもとても面白い優秀な卒論だったんだけど、個人的にものすごい面白かったのは、そのなかのひとりのおっさんで、プライバシーのこともあるからディテールを書くわけにはいかんが、名古屋かどっかで真面目に働いて結婚もして、アパートも借りて真面目に所帯を持っていたのに、ある日とつぜん全てを捨てて大阪に出てきて釜ヶ崎にまで流れ着いたひとの生活史があって、これは面白かった。釜ヶ崎で本格的に調査をしたことはないけど、たぶんあそこにはそういうおっさんが山のように海のようにたくさんいることと思う。

なんていうか、ちょっと憧れることはある。会議だ書類だ内規だ決まりだと、組織の中の糞面倒なことがらにうんざりしているということももちろんあるけども、それよりもっと純粋に、いまの全てを捨ててふらりと知らない街にいって知らない人に囲まれて違う人生を送りたい、という欲望は強烈にある。家も家族もカネもなんにも要らんから、ただカップ酒でも飲んでスナックのおばちゃんからかって、あとは狭いアパートで古本読んだり近所の川の土手をのんびり散歩したり野良猫に餌をあげたり、飽きたらまた自転車に乗ってふらりと消えてしまう。老後はまあ、そのへんで野たれ死にだ。

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追記です。いちばん最初に書いたおっさんの件ですが、最新情報が届きました(笑)。こないだまた失踪してたんだけど、「喧嘩で人殴ってその示談金を稼ぐためにフラフラしてた」んだそうです。「ために」の前後の文章がまったくつながってないような気がします……。

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